2013年02月28日

ヒロイン画像その2

さて変身ヒーロードラマといえば1966年以降は「ウルトラマン」が代名詞のような存在となり、変身ヒーロードラマのヒロインとしてはフジ隊員やアンヌ隊員のようなグラマラスでクールビューティーなウルトラヒロインがその最先端というような感じとなっていました。しかし当のウルトラシリーズは1967年の「ウルトラセブン」以降作られなくなってしまいました。お茶の間の人気は高かったのですが、もともと目標としていた海外展開が上手くいかなかったので資金的に行き詰ってしまったのが大きな理由でした。

そうこうしている間に1960年代の終わり頃にお茶の間の人気を博していったのは青春ドラマでした。特にその中でもスポーツを題材としたいわゆる「スポ根もの」がブームとなり、お茶の間は、テレビのヒーロードラマにもより深い情念のぶつかり合いや生々しい肉体のぶつかり合いを望むようになりました。
そうなるとウルトラマンシリーズには弱点が生まれてきます。まずウルトラマンと怪獣の戦いがあまりに人間離れしすぎていて生々しさに欠けることです。そしてウルトラマンの正体を本人以外が知らないため、人間ドラマを描きにくいという点でした。特にヒロインのフジ隊員やアンヌ隊員も結局は主人公の正体を知らないまま(アンヌは最後には知るのだが)というのは、やはり人間ドラマとしては寂しいといえます。これがやはりウルトラヒロインの大きな限界であったといえます。

0024.jpgこうしたウルトラシリーズの限界を超える新たなヒーロー像を打ち立てたのが1971年に始まった「仮面ライダー」でした。これはもともと東映テレビ事業部がスポ根青春ドラマ「柔道一直線」を作る際にアクション面で協力関係を築いた大野剣友会というチャンバラ時代劇映画が廃れてきてテレビの仕事をするようになってきていたスタント集団と組んで、当時人気だった「タイガーマスク」のような「悪の組織から逃走した仮面をかぶった正義のヒーローの活躍するアクションドラマ」を作ろうとして、そこに当時「サイボーグ009」をライフワークとしていた漫画家の石ノ森章太郎が企画に加わって、「サイボーグ009」に「仮面のヒーロー」という要素を加えた「悪の組織に改造人間とされた仮面のヒーローが逃走して悪の組織と戦う変身ヒーロードラマ」という設定となり、誕生したものです。
もともとは東映が大野剣友会と組んで痛快アクション娯楽作品を作ろうとしていたわけですが、そこに石ノ森が加わることによって、深いドラマ性が付与されることになったといえます。この娯楽性とドラマ性というのは「仮面ライダー」という作品の共に重要な魅力だったのですが、同時にこの2つの特性は互いにぶつかり合うという宿命もあり、昭和の仮面ライダーシリーズの歴史はその相克の歴史そのものと言ってもいいでしょう。




0025.jpgまず「仮面ライダー」の開始当初は石ノ森のドラマ性が勝っており、悪の組織ショッカーによって改造されて普通の人間の身体を奪われて心に傷を負った主人公の本郷猛が悩み苦しみながら戦うというような重厚な物語が展開されました。ここで登場するヒロインが緑川ルリ子です。
ショッカーに利用されて教え子である本郷を改造したのが恩師の緑川博士ですが、その娘がルリ子です。緑川博士は自責の念にかられてショッカーを裏切って脳改造前の本郷を連れてショッカーを脱走して追手に殺されるのですが、この殺害現場を目撃したルリ子はそこに居合わせた本郷が父親を殺した犯人だと思い込み、本郷を憎みます。本郷は改造された身体やショッカーの粛清の魔の手という悲惨な現実と共に、このルリ子の誤解とも戦わねばならず、非常に苦悩することとなります。
結局ルリ子は第3話で本郷の正体を知り、本郷が父を殺したのではなく、むしろ父が本郷を酷い目にあわせていたことを知ります。同時に父が本郷を救ったのであり、父の仇がショッカーだということも知ります。そこでルリ子は本郷の正体やその過酷な運命を知りながら、父の罪滅ぼしと同時に父の遺志を継ぐ形で本郷を受け入れて、本郷に協力して戦うことを決意するのです。


0026.jpgこうして全く新しいヒロイン像が生まれました。「主人公変身ヒーローの異形の正体を知りながら、運命的なパートナーとして彼を受け入れて戦いに協力する普通の女性」というヒロイン像です。「異形の者とのパートナーシップ」という意味では「サイボーグ009」のフランソワーズ・アルヌールと似ていますが、フランソワーズの場合は自分自身が生身の部分は最も多いとはいえサイボーグであり異形の者であるには違いない。それに対してルリ子は完全に普通の人間であり、か弱い一般人の女性です。
もちろんルリ子はウルトラヒロインのように戦士としての訓練を受けているわけではない、むしろ旧来の被害者タイプや助手タイプのヒロインに似ているのですが、0027.jpgそういうか弱さがあるからこそ、異形のヒーローをパートナーとして受け入れ共に戦うという彼女の決断はフランソワーズよりも、ウルトラヒロインよりも更に重いものとなるのです。そしてその強いパートナーシップは人間ではなくなった者に対する禁断の愛情へと変化していきます。それは恋愛感情とハッキリ言えるようなものでもなく、あまりに運命的で重い関係であるゆえにルリ子と本郷が最終的に結ばれることもないのですが。

まぁ原作の石ノ森章太郎はそういうヒロインを描きたかったのでしょう。石ノ森は少年向けヒーローを多く生み出した人だから痛快な作風なのだろうと思う人もいるようですが、実際のところはかなり繊細な作風の人で、少女マンガも手掛けており女性キャラの描写も巧みな漫画家でした。その作風はもっぱら異形の登場人物を通して人間の本質に迫ろうというものが多く、女性キャラの多くは異形の登場人物を受け止める包容力のある優しげなヒロインが多い。「仮面ライダー」はそうした石ノ森の典型的な作風の作品であり、緑川ルリ子は石ノ森ヒロインの実写化だったのです。


0028.jpgこの緑川ルリ子が「ライダーヒロイン」の祖形となるのですが、ルリ子は「仮面ライダー」という作品の路線変更によって序盤13話で姿を消してしまいます。きっかけは本郷役の藤岡弘が撮影中のバイク事故で大怪我を負って降板してしまい、急遽、佐々木剛を2号ライダー一文字隼人役として2号ライダー篇が始まったことでした。序盤13話はドラマが重厚すぎて子供人気はイマイチだったので、もともとは痛快娯楽アクションを作りたかった東映や大野剣友会はここでテコ入れして作風を明るいものとして、変身ポーズの導入などアクション面を充実させ、一文字のキャラも本郷に比べて陽性のものとし、その周囲の人間関係も明るく賑やかなものにしていったのでした。
そうなると本郷とルリ子のようなシリアスな男女の関係などは邪魔となり、設定上ヨーロッパのショッカーを倒すために日本を旅立ったとされた本郷を追ってルリ子も日本を離れたということにして降板させ、代わりに「ライダーガールズ」という、ライダーの戦いをサポートする明るい女の子たちが登場することになります。

0029.jpgこのライダーガールズというのは基本的に助手ヒロインのタイプであって、一文字がライダーであるということは知りません。ただ仮面ライダーがショッカーと戦っているということは知っており、彼女たちは一文字をそのライダーの戦いを支援している勇気ある一般人だと認識しています。その一文字とその同志である滝和也や立花藤兵衛のアシスタント的なヒロインがライダーガールズなのです。
ヒーローの正体を知らないでその本人と共闘しているという点ではウルトラヒロインと似ていますが、ウルトラヒロインほどプロ戦士でもなく、一文字が一種のショッカー専門の私立探偵のようなものだとすれば、彼女らは探偵助手タイプのヒロインに近いといえます。ルリ子も戦いへの参加の仕方だけ見ればライダーガールズと同じようなものですが、大きく違う点はライダーの正体を知っているか知っていないか、そして、ライダーと運命的な繋がりがあるのかどうかという点だといえます。
ライダーガールズにはルリ子のようなライダーとの濃厚な関係が無いので、ドラマは非常にあっさりしたものとなり、ライダーガールズは単なる番組の華的な存在となり、その方が軽快なアクション重視の2号ライダー篇には合っていたのでした。更にこのライダーガールズから派生して少年仮面ライダー隊まで結成されるようになり、ますます子供向けにウケる要素が増幅していきます。そうして、この2号ライダー篇から仮面ライダーブームが起こり、その人気は社会現象とまでなっていきます。
そして怪我が癒えた藤岡が復帰して本郷猛の新1号ライダー篇となってからも2号ライダー篇の路線は維持され、逆に南米に去ったとされた一文字ライダーも時々帰国して登場するダブルライダー篇なども随所に盛り込み、ライダー人気はますます盛り上がっていったのでした。その一方で初期の1号ライダー篇の石ノ森テイストや緑川ルリ子のようなライダーヒロインの存在は、まるで無かったことのようにされていったのですが、この後、仮面ライダーがシリーズ化されることとなり、新たなライダーが登場するたびに石ノ森テイストは甦ることになるのです。
何故なら仮面ライダーという存在があまりにも有名になりすぎたために「仮面ライダーは改造人間である」という基本設定は不変のものとなってしまい、新たなライダーが登場するたびに、彼が改造人間となってしまうに至る重いドラマを描かないわけにはいかなくなり、序盤はどうしても重厚な人間ドラマが展開されるようになったからです。そうなると、そこに見合った、主人公と濃厚な運命的関係を持つ、緑川ルリ子のようなライダーヒロインを登場させねばならなくなります。

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2013年02月27日

ヒロイン画像その1

0001.jpg戦前の日本におけるヒーロードラマといえば「チャンバラ時代劇」の映画でした。ここにおいても、もちろんヒロイン的なキャラというものは存在していましたが、それは戦う存在ではありませんでした。むしろ女性は戦いに巻き込まないというのが一種の美学であったといえます。それは確かに美徳ではあると思いますが、おかげで戦前のチャンバラ時代劇では女性キャラは明らかに脇役で、その印象は薄かったといえます。あとは戦時中には国民を鼓舞するために戦争映画なども作られて、ここで円谷英二が政府の支援も得て世界最高水準の特撮技術を蓄積していったのですが、リアルな戦争映画ですから、当然ここでも戦うヒロインなどというものは存在しませんでした。
さて敗戦となり、アメリカ軍が日本を占領統治するようになると、チャンバラ時代劇は禁止となってしまいました。チャンバラ時代劇には敵討ちを題材としたものが多く、膨大な数の日本人を殺しまくってきたアメリカ軍にとっては都合の悪いものだったようです。また、とにかくアメリカと戦っていた従来の日本政府をはじめとした統治機構は全て悪であるかのように宣伝されたので、まず日本軍は悪者として否定され、警察なども悪者扱いされました。円谷英二などもこの頃は公職追放されたりして冷遇されていました。つまり軍人も警察官もヒーローではなく、チャンバラ時代劇のヒーロー達も否定されたヒーロー不在の時代です。
そうなると困ってしまったのは日本の映画会社や映画俳優の皆さんです。何とか仕事にありつくためにアメリカ軍に取り締まられないようなタイプの新しいヒーロー像を模索しました。その結果、「私立探偵」という新しいヒーロー像が出来上がったのです。

探偵ヒーローそのものは戦前から大衆小説の中に探偵小説というジャンルが存在し、そこで活躍する私立探偵というキャラはいました。特に少年向け小説で少年探偵団シリーズが大人気となっていました。しかし映画界はチャンバラ時代劇全盛でしたから、わざわざ探偵を主人公にした映画などあまり作られてはいませんでした。しかし敗戦後、チャンバラ時代劇が禁止となった後、この私立探偵を主人公として事件を颯爽と解決して悪者を懲らしめるヒーロー映画を作り、そこにチャンバラ時代劇に出ていたスター役者らを出演させることが多くなりました。
私立探偵なら敵討ちとも無関係であり、政府の手先でもありませんし、欧米にも類似ジャンルはありましたから、アメリカ軍の理解も得やすかったのでした。これが大人気となり、その後、占領が終了して時代劇が解禁になった後でも「探偵ヒーロー」というヒーロー像は1つの現代的ヒーロー像の典型として生き残ることとなったのです。
しかし、この探偵ヒーロードラマの場合、もともと少年向けの小説シリーズで完成されていたジャンルを流用したものだったので、女性のレギュラーキャラというものがあまりいませんでした。だが、もともと探偵ヒーローものの映画は映画俳優の救済策として作られたものですから、女優の方々にも主要な役を宛がわねばなりません。そこで少年向け小説においては少年キャラが担当していた私立探偵ヒーローの助手キャラを女性キャラに変えて、その役を女優に宛がったのでした。こうして探偵ヒーローの助手キャラとしてのヒロイン像が生まれたのでした。

0002.jpgこの探偵ヒーローというジャンルの特徴は、特に事件解決の義務や因縁を強く持たないヒーローがいきなりボランティア的に事件解決に乗り出して解決してしまうという便利な代物で、ヒーローが戦いに至るまでのストーリーを細かく作り込まなくて済むので、その後テレビ時代になって1963年の「鉄腕アトム」を皮切りにアニメや実写で数多く作られるようになった初期の1960年代半ばの子供向けSFヒーロードラマは大抵はこの探偵ヒーローのフォーマットをベースとしていました。
また公職追放が解けて復帰した円谷英二が1954年に大ヒットさせた「ゴジラ」に始まる怪獣映画シリーズでも、怪獣事件に巻き込まれる物語の進行役の主人公はこの探偵ヒーロータイプの民間人ボランティア主人公でした。

これらの作品に出てくるヒロインは、探偵型ヒーローの助手的なキャラが多かったわけです。確かにチャンバラ時代劇の頃に比べるとヒーローの戦いの場面にも参加する局面も増えて目立つようにはなっていましたが、それでももともとは少年助手キャラの発展型であるので、あくまで戦闘要員ではなく、活躍するようなキャラではなく、むしろドジやおっちょこちょいの三枚目的ポジションでヒーローの引き立て役として機能するキャラでした。つまり可愛いけど戦力外であり、お荷物的存在ですらあり、あまりヒーローから頼りにされるようなキャラではありませんでした。また、助手キャラ以外のヒロインというと、だいたいは事件に巻き込まれる被害者キャラであり、これもヒーローに守られる立場であり、ヒーローの頼りになる存在ではありませんでした。
つまりはこの頃のヒーロードラマのヒロインは可愛さと愛嬌だけが取り柄の「番組の華」的な位置づけでしかなかったといえます。まぁそもそも探偵ヒーローの「戦い」自体がかなり他愛ない代物だったので、助手の女の子も可愛さと愛嬌だけのドジっ子であっても差し支えは無かったといえます。

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2013年02月17日

特命戦隊ゴーバスターズについて考える

「特命戦隊ゴーバスターズ」という作品は「変革」を志向した作品でした。
スーパー戦隊シリーズが前年に「海賊戦隊ゴーカイジャー」という
シリーズ総決算的な作品を制作したので、
次の作品である「ゴーバスターズ」は新しいシリーズを作るぐらいの意気込みで
取り組んだ作品であるというように当初謳われていました。
だが、これは実際は単なる宣伝用の煽り文句であって、
そこまで本気の根本的な大改革を志向していたわけではないでしょう。

そもそも「ゴーカイジャー」という作品が実際は「総決算」を志向して作られたわけでもないわけで、
結果的に「ゴーカイジャー」が成功して世間の見方がそんな感じになったので
それに便乗して、「ゴーバスターズ」の制作が「総決算の後の新機軸」という
一貫した戦略のもとに行動しているかのように見せかけているだけのことです。
何かそういう言い方をすれば、さぞかし「ゴーカイジャー」の後の「ゴーバスターズ」は
凄いものになるのだろうという期待感が高まりますから、その効果を狙ったのでしょう。
実際、私も当初はかなり期待しました。

まぁ「ゴーカイジャー」が結果的に成功したので「総決算的な作品」の評価を得たのと同様に、
「ゴーバスターズ」も成功していれば「シリーズを変革した作品」という評価を得たことでしょう。
ただ、これらは全て単なる公式的な謳い文句に過ぎず、
「ゴーカイジャー」が実際はシリーズを総決算したわけではないのと同様、
「ゴーバスターズ」も実際はシリーズを変革したわけでもないというのは、
作品の成功失敗は関係無く厳然たる事実でしょう。

「ゴーバスターズ」は結果的に失敗したわけですが、
もし本当にシリーズに改革が必要なのであれば、
この一度の失敗だけで「変革」の看板を降ろすなどということは有り得ない。
然るに次作の「獣電戦隊キョウリュウジャー」は見事なまでに「王道回帰」であり、
「ゴーバスターズ」で掲げた「変革」は跡形もなく消え去っています。
これに対して「ゴーバスターズ」を嫌っていた人達の一部は
「ゴーバスターズの変革が失敗したから元の王道が復活して良かった」と喜び、
逆に「ゴーバスターズ」を好んでいた人達の一部は
「成績が不調だったせいでせっかくのゴーバスターズの変革が中止になって
退屈な従来型戦隊が復活したのは残念」と言ったりするのだが、
そもそも本気の不退転の改革であったなら
一度の失敗でいきなり180度方針転換するのは不自然であり、
もともと「改革」など存在していなかったと考えた方がしっくりきます。

上記のような「ゴーバスターズ」のファンの一部もアンチの一部も
実体の無い「改革」を看板に掲げた東映の宣伝に踊らされただけという意味では同じでしょう。
もともと「ゴーバスターズ」にスーパー戦隊シリーズを
変革しようなどというほどの志があったわけではなく、
「キョウリュウジャー」は「ゴーバスターズ」の結果がどうであれ
王道路線になっていたのでしょう。
「ゴーバスターズ」は、ただ単に「総決算の後の新機軸」という謳い文句で
盛り上げたかっただけのことだと思います。
つまり「不退転の決意でシリーズを立て直す」というほどの改革の熱意など無かった。

そもそも前作「ゴーカイジャー」は玩具売上は絶好調であったし、
記念作ということで世間で話題にもなった。
ストーリー的にも上手くまとまっていたので評価も高かった。
その前作の「ゴセイジャー」はパッとしなかったが、
その前作「シンケンジャー」は評価の高い作品であり視聴率も良かった。
このように、確かに今後長くシリーズを続けていくことを考えると
将来に向けた漠然たる不安はあるが、
今すぐどうにかしなければ大変だというほどの危機感は無いのが現状です。

視聴率はテレビ業界全体が低下傾向にはあるし、
スーパーヒーロータイムは2006年に裏番組のポケモンが放送時間枠を拡大した後、
以前よりも低水準になったのも事実です。
先行きは大して明るいとも言えません。
前作「ゴーカイジャー」の後半の視聴率がひときわ下がったのは、
子供の理解の難しい作風のせいかとも思えますが、
あるいは地デジ化の影響もあるのかもしれません。

「ゴーカイジャー」の作風が子供に親切でないのは当初から予想できたことであり、
制作側も子供人気よりも記念作としてのスタンスの貫徹を確信犯的に選んでいたフシはありますから、
それが原因で「ゴーカイジャー」後半視聴率が落ちたというのなら、
それはさほど憂慮すべき事態ではないでしょうが、
もし地デジ化のせいで視聴率が更に落ちたのならば、その傾向は今後も続くということであり、
長期的に見てやや憂慮すべき事態です。
まぁ戦隊シリーズにとって憂慮すべき事態というよりは
視聴率という指標そのものの危機ともいえますが、
まぁそれでも実際「ゴーバスターズ」の視聴率はかなり低かった。

ただ「ゴーバスターズ」の制作が開始された時点では、
まだそのような憂慮は生まれてはいなかった。
少なくともその時点ではスーパー戦隊シリーズに
さほど切迫した危機感は生じていなかったはずです。
むしろ「ゴーバスターズ」が結果的に割と切迫した危機感を生じさせてしまったといえます。

また、玩具売上に関しても、
前年の「ゴーカイジャー」は順調に玩具が売れていましたから切迫した危機感などあるはずがない。
近年の傾向としてライダーとの差が広がってしまったということが挙げられますが、
これはライダー玩具の売上が「ディケイド」以降飛躍的に伸びた結果であり、
戦隊玩具が売れなくなったわけではない。
特に「W」以降放送開始時期を9月にしたことがライダー玩具の売上の飛躍を生んでおり、
これはライダー側の戦略の勝利でしょう。
だが、それは同じ東映内での戦隊とライダーを総合した統一戦略の勝利でもあるので、
戦隊側がさほど危機感を持つほどのことではないでしょう。

このように切迫した「変革」への要望があったわけでもない状態であったのに
「変革」を高らかに謳い上げたのは、
単に「ゴーカイジャー」の次作というタイミング的に
「総決算の後の新機軸」という煽り方が有効と判断したという意味合いが強いのでしょう。
だから本気の不退転の改革の意思があったわけではない。
単にその年の戦隊が王道であれば「やはり王道が一番」だと言い、
その年の戦隊が変化球ならば「今こそ改革の時」と言うだけのことというのが
東映の商いの手法というだけのことであり、
そこには確固としたポリシーや危機感など本当は無いのです。

しかし、別に煽り文句なら他にも適当なものもあったかもしれないのに、
それでもあえて「変革」という旗印を掲げたからには、
切迫した危機感が動機ではないにせよ
何らかの新しい試みに取り組む意思自体はあったのでしょう。
いや、スーパー戦隊シリーズでこれまでに新しい試みをやらなかった作品など1つも無い。
だから当然のように「ゴーバスターズ」においても新しい試みは用意されていたのだが、
「ゴーバスターズ」の場合は、その例年通りのささやかな「新しい試み」を
「ゴーカイジャー」の次作というタイミングゆえに、
さも大きな変革であるかのように、ある意味針小棒大に喧伝したのだといえます。
そして、それが作品全体を自縄自縛に陥らせたような気がします。

この作品におけるその「新しい試み」とはロボ戦を重視するということでした。
その背景には戦隊のロボ玩具をもっと売りたいというバンダイ側の要望があったと推測できます。

実際のところ戦隊のロボ玩具が特別売れていないというわけではない。
毎年コンスタントに売れています。
もちろん作品によって売上の変動はありますが、
このタイミングでテコ入れが必然的であるような下落傾向があるわけではない。

だが近年の玩具売上が良かった戦隊において、
ロボ玩具がその好成績の原動力たりえていないのもまた事実です。
例えば「ゴーオンジャー」においてはその好成績の原動力は炎神ソウルであったし、
「ゴーカイジャー」においても同様に収集系アイテムのレンジャーキーが
その好成績の原動力となっていました。
また近年では比較的好成績であり、特にスタートダッシュはなかなかのものであった
「シンケンジャー」においてもその序盤好成績の殊勲アイテムは
なりきり系玩具のシンケンマルでした。

このように近年は戦隊ロボはコンスタントに売れてはいるものの爆発的ヒットには至らない。
コンスタントに売れているのだから全然ダメではないわけです。
こういう場合は「伸び悩んでいる」と見なされ、
だからもう一工夫すれば爆発的ヒットの可能性もあるという
「伸び代」のある状態と見なされます。

逆に収集系アイテムは「ゴーオンジャー」の後、ライダーの方で大きく開花しており、
むしろ収集系アイテムの本場はライダーにあるといえる。
戦隊で収集系アイテムをヒットさせてもどうしてもライダーの水準までは及ばない。
しかしバンダイでも当然、戦隊玩具のセクションとライダー玩具のセクションは別々ですから、
戦隊玩具のセクションはどうにかしてライダー玩具のセクションに勝ちたいと思うのが当然です。
だが収集系アイテムでは最大限頑張ってもなかなかライダーのそれを上回ることは出来ない。
ならばライダーには無いロボ玩具の伸び代に期待するのが自然な流れです。

そこで、どうして戦隊のロボ玩具の売上があまり伸びていないのか検討してみたところ、
どうもTV本編の劇中でのロボ戦の扱いが悪いせいではないかという話になったのでしょう。
実際、伝統的に戦隊の劇中でのロボ戦の扱いは良いとはいえません。

もともとスーパー戦隊シリーズは「ゴレンジャー」で人気を博した後を継いだ
「ジャッカー電撃隊」の不人気で立ち消えになっていた変身チームヒーロードラマの流れを、
ロボ玩具の販促をやるという条件で「バトルフィーバーJ」以降
シリーズ化して立ち上げたものですから、
戦いの場面が等身大戦とロボ戦との二部制になっています。
そしてロボ玩具を売るのが至上命題ですから、一番の見せ場は当然ロボ戦ということになり、
最後はロボ戦で敵にトドメを刺すという流れになっていました。
つまり「等身大戦→ロボ戦」というパターンが確立されたのです。

実は実質上のシリーズ第1作である「バトルフィーバーJ」では
まだこのパターンが確立されておらず、
レッド戦士のバトルジャパンがバトルフィーバーロボに搭乗して
ロボ戦をやっているのと同時進行で他の4人のメンバーが等身大戦をやっていたりもしました。
それが次作の「デンジマン」では「等身大戦→ロボ戦」というパターンが確立されたのは、
やはり最後は5人の共同作業のロボ戦で敵にトドメを刺す方が
視聴者の子供たちにロボの格好良さをアピールするのにより有効だと判断されたからでしょう。

実際、戦隊ロボ玩具はよく売れました。
ただ、当時は巨大ロボットアニメがブームであり、
それと同じことを実写特撮でやったことによって戦隊ロボは人気だったのであって
「等身大戦→ロボ戦」のパターンが人気の原因だったのかどうかは実はよく分かりません。
このパターン確立前のバトルフィーバーロボも玩具は非常によく売れました。
結局のところ、本当は「等身大戦→ロボ戦」というパターンの方が
製作進行がスムーズだったからという制作サイドの都合であったのではないかと思います。
また、等身大戦の敵とロボ戦の敵が同じ姿をしているのも
着ぐるみを流用できて経費節減に繋がるからでしょう。
そのため「怪人が倒された後に復活巨大化する」というパターンが生み出されました。

この「等身大戦の敵とロボ戦の敵が同じ姿」というパターン脱却を
シリーズ初期において目指したのが「バイオマン」でしたが、
ここでは経費節減のために等身大戦の敵の着ぐるみを節約する羽目になり、
等身大戦の敵は十数体のレギュラーキャラとなり、
バイオマンが等身大戦で敵を完全に倒す場面が減ってしまいました。
ロボ戦ではバイオマンは強くて毎回敵のロボを倒すのだが、
等身大戦ではいつも敵にトドメを刺せずに逃がしてしまうということになり、
これではどうもあまり良くない。
そこでやはり次作「チェンジマン」から以前と同じ復活巨大化パターンに戻りました。

ただ、この復活巨大化パターンにも問題はあります。
一度等身大戦で戦隊側が倒した敵と同じヤツがロボ戦の敵なので、
どうも戦隊側が負ける気がしないのです。
だからハラハラドキドキする感じが無くて、ロボ戦が消化試合化して、
あまり盛り上がらなくなってしまいました。
シリーズ初期はまだ飽きがなかったのですが、
シリーズが何年も続くようになってくると、これはいい加減マンネリ化してきます。

ならば「バイオマン」方式にするのも1つの手なのですが、
その場合は等身大戦が消化不良になってしまいます。
どっちもどっち、一長一短なのですが、
そうなると経費節減しつつ一応毎回等身大戦でもロボ戦でも敵を倒せる
復活巨大化パターンの方がマシという判断となります。
このパターンの方が製作進行がスムーズというのもあります。

そこで復活巨大化路線が定番となり、
そこで必然的に生じるロボ戦の消化試合感は、
2号ロボを登場させたり、スーパー合体ロボを登場させたりしてマンネリ感打破に努めました。
紆余曲折はあったものの現在に至るまで基本的にそうした方向性は継続しており、
「ロボ戦は基本的には消化試合だが見せ方の工夫で魅力を補う」というのが
戦隊におけるロボ戦の基本方針となっています。

つまり、いろいろ工夫はされているものの、
やはり等身大戦に比べるとロボ戦の扱いは悪いといえます。
いや、作っている側もロボ戦の扱いを悪くしているという意識も無いのでしょう。
総合的に考えてこの形式が一番良いと考えて、
それが戦隊というものだと当たり前のように考えていただけのことです。

しかし、そのような従来通りの思考では戦隊ロボ玩具の売上の伸び代を発掘するのは難しい。
ロボ玩具の売上を飛躍的に伸ばそうとするならば根本的な新しい発想が必要です。
そこで毎回の劇中におけるロボ戦の重要性を従来よりも大幅に上げることで
ロボの魅力を上げ、ロボ玩具の売上の伸び代を発掘しようという考えが生まれてきたのでしょう。

では何故これまではロボ戦の重要度が低かったのかというと、それは消化試合だからであり、
なぜ消化試合なのかというと、敵がロボ戦を目的として攻めてくるわけでないからです。
敵の目的はあくまで等身大戦で成し遂げられることであり、
等身大戦に敗れた時点で敵の目的は潰えており、勝負は決しています。
ロボ戦はその後で敵が最後の悪足掻きをしているに過ぎず、
もはやその戦いは残党狩りのようなもので緊張感は無い。
だから消化試合なのです。
もちろん例外的にロボ戦がメイン扱いとなる戦いもこれまでにもありましたが、
それらはあくまでイレギュラー扱いであり、
基本的には戦隊におけるロボ戦はこのような感じの消化試合なのです。

ならば消化試合感を払拭するためには
「ゴーバスターズ」においては敵が巨大ロボを使った作戦を目的として攻撃を仕掛けてきて、
それに対して戦隊側が巨大ロボで迎え撃つという形を基本形とすればいい。
そこで考え出されたのが、敵であるヴァグラスが巨大なエネルギータンクに貯蔵された
エネルギーを巨大ロボを用いて毎回奪いに来るという設定でした。
これを阻止しなければ戦隊側の勝利とはいえない。
そして敵の巨大ロボのエネルギー奪取作戦を阻止するためには
戦隊側も巨大ロボを繰り出してロボ戦で決着をつけるしかなく、
こうなればロボ戦こそが毎回エピソードのメインとなり、その重要度は増し、
これはもはや消化試合などではない。

だがこの場合問題なのは等身大戦をどう扱うかでした。
この基本設定を貫徹すれば、まるで「マジンガーZ」「ゲッターロボ」のような
スーパーロボットアニメと同じであり、等身大戦をやる必要は無い。
しかしスーパー戦隊シリーズですから等身大戦を無しにするわけにはいかない。
等身大戦とロボ戦の両方を必ずやることになります。
そして従来の戦隊のように等身大戦とロボ戦の敵の姿を同じにするとなると、
どちらかは消化試合となってしまうのだが、この作品はロボ戦は消化試合にはしない。

ならばロボ戦の後に等身大戦をやって等身大戦を消化試合とするのかというと、
そういうわけにもいかない。
それは最初に巨大な姿で現れた敵が一旦倒された後
復活小型化して再び戦うという、なんとも奇妙な展開になるからです。
こんな珍妙なものを見せるわけにもいかないのでこれもボツです。

となると、等身大戦の敵とロボ戦の敵は別の姿をしている、
あくまで別の個体ということにするしかない。
その場合、敵の主要な目的であるエネルギータンク襲撃はロボ戦の方の敵、
つまり巨大ロボの方の担当ということになりますが、
ならば等身大戦の方の敵、つまり怪人は何をしにやって来るのか、
あくまで別々の個体だけにそのあたりも考えておかねばなりません。

これについてはあくまで別個体なのですから、
結局は怪人の作戦行動と巨大ロボの作戦行動がそれぞれ別ということになり、
敵側は毎回、エネルギータンク襲撃ともう1つ怪人の作戦という、
合せて2つの作戦を進めることになります。
そうなると、何故いつも敵は2つの作戦を一緒にやろうとするのかについて
合理的な説明が必要になる。
なぜ巨大ロボだけでなく、わざわざ怪人も送り込んでくるのか、
納得のいく説明が必要なのです。

そこで「巨大ロボを送り込むためには別に怪人をマーカーとして送り込む必要がある」という
設定が生まれました。
そして、そんな特殊な条件が必要であるのは、
敵が巨大ロボを「亜空間」という現実空間とは別の空間から
特殊な方法で送り込んでくるからだという設定となったわけです。
つまり敵は巨大ロボを送り込んでエネルギータンクを襲撃することが本来の主要目的なのですが、
そのためにマーカーとして別個体である怪人を現実空間に出現させておかねばならない。
その怪人はせっかく出現させたので何か別の作戦に従事させることになる。

このような設定となっている場合、
怪人の等身大の作戦行動中に巨大ロボが出現して
エネルギータンク襲撃を開始することも当然あるわけで、
そうなると等身大戦とロボ戦が同時進行することも有り得る。
いや、むしろこの作品においてはそうした等身大戦とロボ戦の同時進行を
積極的に常態化させました。

バトルフィーバーJの頃は戦隊でロボ戦を導入した最初の作品だったので
「何でもアリ」だっただけのことで、
別に意識して積極的に等身大戦とロボ戦の同時進行を常態化させていたわけではない。
だが「ゴーバスターズ」においては、あえて意識してそれを常態化させたのです。
それは同時進行させた方が等身大戦もロボ戦も消化試合化しないと考えたからです。

等身大戦とロボ戦と、どちらかが先に終わってから残ったどちらかが開始するということにすれば、
たとえあくまで怪人と巨大ロボが別個体であったとしても、
やはり後に開始する方が消化試合のように見えがちです。
だから同時進行することにこだわった。

また、同時進行した方が等身大戦もロボ戦も長く戦っていることになります。
「等身大戦→ロボ戦」というようにくっきりと時間を分けて描写する場合も、
等身大戦とロボ戦を同時進行する場合も、
どちらも映像としての各バトルの尺は同じようなものです。

例えば放送時刻でいえば、等身大戦を7時45分に開始して、
7時50分に等身大戦が終了してロボ戦が始まり、7時55分にロボ戦が終わった場合は、
等身大戦が5分、ロボ戦が5分ということになります。
だが等身大戦もロボ戦も共に7時45分に始まって同時進行し、
映像的には場面を切り替えて二元中継のようにして映し、
等身大戦もロボ戦も共に7時55分に終わったとすると、
等身大戦とロボ戦の両方とも均等の配分で二元中継したとしたら、
映像的にはあくまで等身大戦が5分、ロボ戦が5分という尺になりますが、
視聴者は等身大戦もロボ戦も両方とも10分間戦っていたような印象を受けます。
だから、この同時進行の手法を使えば、ロボ戦も等身大戦も両方とも消化試合化せず、
むしろとても充実しているように見える。

ただ、この手法の場合、1つクリアーすべき難問がありました。
それは巨大ロボと怪人を別個体とすることによって
着ぐるみの予算が通常の倍になってしまうということでした。
そんな予算はありません。
かといって「バイオマン」のように等身大戦の敵を毎回トドメを刺せずに
逃がしてしまうというわけにもいかない。
そこで、等身大戦の敵怪人は毎回違う個体として毎回しっかり倒すことにしつつ、
巨大ロボの方はベースとなる素体を数パターン用意しておいて、
それに毎回、等身大怪人のボディのパーツの一部を流用してくっつけて
個性を出すという苦肉の策が採用されました。

こうして、なんとか等身大戦とロボ戦の同時進行のフォーマットは出来ていきましたが、
これらはあくまで敵側の方のフォーマットであり、これだけではまだ足りません。
それらを迎え撃つ戦隊側の方のフォーマットも作らないといけないのです。
ここで問題は、等身大戦とロボ戦を同時進行させるとなると、
戦隊側も戦力を二手に分けなければいけないということです。
いやこれまでの戦隊シリーズ作品でも等身大戦とロボ戦を同時進行させるために
戦隊側の戦力を二手に分けて戦ったことなど多くあります。
ただ、これらはあくまでイレギュラーなパターンという扱いになっており、
あくまでそれぞれの戦隊は「等身大戦→ロボ戦」という流れ作業をこなすことを前提に
システムが組まれていました。

すなわち、まず等身大戦では5人で変身して名乗って戦い始め、
最後は5人の合体技で怪人を倒し、
その後復活巨大化した怪人を倒すため5人が一斉に巨大メカに乗り込み、
その5つの巨大メカが合体して巨大ロボとなり、
5人が操縦する巨大ロボが敵巨大怪人を必殺技で倒して戦いが完全に終わるという王道パターンです。

しかし、「ゴーバスターズ」の場合は等身大戦とロボ戦の同時進行を前提としていますから、
それに見合った新しいフォーマットが必要となります。
まず等身大戦とロボ戦が同時進行する以上、
等身大戦にもロボ戦にも戦隊側のフルメンバーが揃うということはあまり無いということになります。
そうなると等身大戦でのフルメンバー揃っての変身や名乗りの派手な演出は出来ない。
そういうものは一部メンバーだけでやっても仕方ないので、
いっそ派手な様式美的な変身演出や名乗り演出は無しの戦隊にしようということになりました。
そうなると必然的に、陽気でハチャメチャな派手好きな戦隊ではなく、
むしろクールで落ち着いたプロフェッショナル風な戦隊ということになります。
その方が変に派手な変身ポーズや名乗り口上などが無いことが自然に見えるからです。

また、等身大戦でフルメンバーが揃わないのならば、全員の力を合わせた合体必殺技、
たとえば合体バズーカ系の派手な決め技演出が出来ません。
合体技が出来ないのならば、個人の技や武器で敵怪人を倒せるということにしなければならない。
そうなると、個人で敵を倒せてしまえるので、
あまり戦隊メンバーで力を合わせて戦うという描写が無く、
ますますクールなプロ戦士の戦隊の方がイメージに合うことになります。
こうしてエネルギー管理局特命部所属の真面目な公務員プロ戦士
ゴーバスターズという設定が生まれ、メンバーの性格も地味で真面目、
派手な変身や名乗りもしない戦隊となったのでした。

そしてロボ戦の方もフルメンバーがなかなか揃わないということは、
基本的に合体ロボを使わずに単体ロボでも敵巨大ロボを撃破出来るという
設定にしなければならない。
だからゴーバスターズのロボはどれも単体で戦うことを前提に作られており、
1人が操縦して動くように作られている。
それゆえゴーバスターズのバスターマシンは全て単座型のコクピットであり、
その単座コクピット形態はたとえ複数のロボが合体しても変わりません。

単座コクピットに搭乗して単体で戦うロボを操縦するという意味で、
その操縦者であるゴーバスターズのメンバーは
これまでの戦隊の戦士たちの中で最も「パイロット」という印象が強い。
そしてこの作品の大目的がロボ戦の重視である以上、
このロボ戦で最も活躍するゴーバスターズ側の単体ロボは
主人公たるレッド戦士の操縦するロボでなければならない。
その赤いロボはエースパイロットたるレッド戦士の乗るエース機体であり、
その名はまさに「ゴーバスターエース」ということになり、
主人公レッド戦士であるレッドバスターの桜田ヒロムは、
そのゴーバスターエースを操縦するエースパイロットという設定となりました。

単座コクピットで単体ロボを1人で操り敵ロボを倒す孤高の天才エースパイロットのヒロムは
必然的にクールでマイペースな男となります。
ヒロムだけが13年前の事件以後ずっと特命部の訓練に参加していなかったという設定も、
当初は何か作劇上の重大な伏線なのだろうかなどと勘繰ったものですが、
これも単純にヒロムと他のメンバーとの心理的な距離を確保して、
他と馴れ合わないクールな孤高キャラを演出するための設定であっただけのようです。

そしてヒロムに限らず、
リュウジにしてもヨーコにしてもヒロムほどではないにしても、
やはり他に対して心の壁が割と高めのキャラとなっています。
やはりこの2人もまた単座コクピットで単体ロボを操縦する孤独な戦士であるという意味では
ヒロムと同じタイプなのです。
ゴーバスターズのメンバーは従来の戦隊のメンバーに比べて
仲間内での心理的な距離が遠めだといえます。
これは等身大戦とロボ戦を同時進行するというフォーマットを作った結果、
必然的に導き出されたメンバーの個性と言っていいでしょう。

ただ、そうなると全体的にチームワークが悪く、
妙に暗くてギスギスした感じになってしまいますので、
それをカバーするために配置されたのがバディロイドというキャラであったのでしょう。
真面目で面白味のない性格のゴーバスターズの3人とは対照的に
バディロイドの3体は妙に人間臭くて感情豊かで人懐っこく、
ギャグ要素の強いキャラ設定になっています。

当初の宣伝文句ではこの作品は「3×2戦隊」と言われていたことを考えると、
ヒロムとニック、リュウジとゴリサキ、ヨーコとウサダという3つのペア単位で
行動する戦隊というものが構想されていたのではないかと思います。
真面目なバスターズとギャグキャラのバディロイドの凸凹コンビが3つ存在し、
3体のバディロイドを潤滑油として3つのユニットが次第に6人の1チームに成長していくという、
そういうお話が予定されていたのではないでしょうか。
これならばゴーバスターズの3人がクールな孤高キャラであったとしても戦隊として成立はします。
だが、このバディロイドの設定がどうも甘く詰め切れていなかったので、
この作品はここから破綻してしまったようです。

そもそもバディロイドが潤滑油となる「3×2戦隊」といっても、
その「3×2」が常に等身大戦とロボ戦に二分されてしまうのでは、
結局は潤滑油たるバディ同士も引き離されてしまうので潤滑油としての役割は果たせない。
また、そもそもロボ戦にバディロイドがどのように参加するのかも問題で、
バディがコクピットの操縦桿となるということにして
それぞれの担当バスターズとの絆を強調するということになりましたが、
そうなると単座コクピットの操縦桿として個々のバディ同士は
完全に引き離された状態に置かれることとなり、
ロボ戦ではバディとバスターズの絆は描写出来ても、バディ同士の絆は描写できない。

一方の等身大戦ではバディ同士の絆もバディとバスターズの絆も描写は可能だが、
そもそもロボ戦と同時進行だから1〜2ユニットは別行動で同じ場にはいないのですから、
結局バディ同士の絆を描写するのは難しく、
つまり等身大戦とロボ戦の同時進行設定や単座コクピット設定やロボ戦重視設定がある限り、
戦場においてバディが3ユニットの潤滑油となるという構想は実現しない。

そうなるとバディが仲良く親交を温める描写を増やそうとすれば
バディ3体は基地でおしゃべりしているシーンを増やすしかなく、
結局バディロイドは「ロボ戦における大事な操縦桿の役目があるため
危険な目に遭わせることは出来ないから等身大戦時は基地で待機」という設定となってしまった。
すると、確かにバディ3体が仲良さそうには見えるようになったが、
等身大戦時はバスターズ3人が必死で戦っている時に呑気に基地で留守番して、
モニターでバスターズの戦いを見物して野次馬のようにコメントしたり、
やたらとハラハラしたりする姿が無責任であったり過保護のバカ親のようであったりして、
とても視聴者の共感を得られるようなキャラではなくなってしまった。
また等身大戦時に相棒であるバスターズとバディの距離が遠すぎて、
絆が全く描写されないという困った状態となった。

ならばその分を補うほどにロボ戦の方ではバスターズとバディの
それぞれのユニット内の絆が描写されたのかというと、これもイマイチでした。
操縦桿となったバディはコクピット内に顔だけが出ている状態で、
一応パイロットであるバスターズと会話もするのだが、
やはり完全体からスケールダウンして単なる部品化してしまったという印象が強い。
例えば炎神のように通常時から小型化していたりホログラム化していたりして
普段がスケールダウンした状態であればロボ戦時に巨大化することでいっそう頼もしさを増すのだが、
バディはその逆であってロボ戦時の方が通常時よりもスケールダウンしてしまっていて存在感が無い。

通常時ですら単なる留守番キャラに堕してしまっているのですから、
そこから更にスケールダウンした操縦桿形態時にいくらか気の利いたことを言ったとしても、
通常時のイメージダウンを払拭するまでには至らないのです。
だからロボ戦時の単座コクピット内でのバスターズとバディの遣り取りを通して
視聴者に強い絆をアピールすることは出来なかった。
しかも単座コクピットですからバディ同士の絆や
ユニットの枠を超えたバディとバスターズの絆など全く描写できない。
全体的に描写出来ているのはバディ同士の基地での留守番時の絆だけだが、
こんなものは戦士の絆とはほど遠い。
なんといってもマズいのは、本来はバディ同士が取り持って3つのユニットの絆が深まるはずが、
バディロイドのイメージがこう悪くなってしまってはその仕組みが機能しないことです。
結果として、もともとクールな孤高キャラである3人のバスターズが
いつまで経っても一向に仲良くならないバラバラなままです。

いや、バディを留守番キャラにしてしまった時点で「3×2戦隊」の構想は破綻したことは
制作側も理解はしていたのでしょう。
だから「3×2戦隊」などというキャッチフレーズはほんの初期だけで消え去り、
バディに頼らずに3人のバスターズが自力で絆を深めていくというように
ストーリーは修正されたと思われます。
だが、もともとバスターズ3人のクール孤高キャラ設定はこの作品の根幹たる
「等身大戦とロボ戦の同時進行設定」から必然的に導き出されたものですから、
この同時進行設定を止めない限り、3人のキャラ設定が根本的に変わるということは有り得ない。
それなのに同時進行設定を止めないまま3人が自力で仲良くなるストーリーにしたものだから、
なんとも不自然なものになってしまった。

3人の性格を考えれば簡単には仲良くならない方が自然なのだが、
それではギスギスして戦隊らしく見えない。
だがいっそ思い切って「仲の悪い戦隊」方向に振りきってしまった方がマシだったかもしれない。
とことん喧嘩させれば自然に和解していったかもしれない。
キャラ自体の自然な動きに任せればキャラは活き活きしてくるし、
作り物とはいえ人間なのだから自然に和解に至る道も見えてきたことだろう。
だがこの作品では本来は簡単に仲良くならないはずの3人が序盤で
何時の間にか大したきっかけもないまま仲良くなってしまったため、
その出来上がった絆がかなり怪しい、嘘くさいものになってしまった。

いや嘘くさくても本当の絆であるかのように押し通してくれれば信じることも出来るのだが、
仲良くなった後も随所で本来のクール孤高キャラが表面化してくるものだから、
やっぱり本当は仲良くないんだろうというふうに見えてしまう。
しかし仕方ないのです。
作品の根本設定が変わっていない以上、
3人のバスターズがフレンドリーな性格になるわけがないのだから、
その本性が出てくれば仲良し描写が嘘くさく見えるのは仕方ないのです。

この3人は根本的にはバディを介して絆を結ぶキャラなのだから、
バディというキャラを機能不全に陥らせた瞬間にこの3人の絆が成立するはずはないのです。
そうした大原則を無視して無理に3人を仲良しにしてしまったため、
バスターズ3人は単に暗くてギスギスとして仲が悪いという悪印象だけではなく、
更に加えてなんだか嘘くさい絆を主張する胡散臭い連中となってしまいました。

これでは視聴者の子供たちに好印象を持たれるはずはない。
まぁ単にアクション目当てで観ている子供も多いので
3人のキャラが不快でも全ての子供が番組を観るのを止めるということはないでしょうけれど、
やはり例年の戦隊に比べて変身前のヒーローのキャラ人気は低かったと思います。

こうなると全てが上手く回らなくなるもので、
バスターズ3人の変なウイークポイント設定も悪印象となってしまいます。
そもそもどうしてこんな変なウイークポイントを3人に設定したのかよく分からない。
ワクチンプログラム投与によって人間離れしてしまった
3人の異端者としての側面を強調するためであったのか、
あるいは逆に異端者でありながら持ち合せた人間らしさの象徴という意味合いであったのか、
それとも単にギャグ的な意味だったのか、
結局は捨て設定になったっぽいので、今となってはよく分かりません。
ただ結果的には3人の印象がヒーローとしてもともとかなり悪くなってしまっていたため、
このウイークポイントは単に「弱いヒーロー」という印象を導き出してしまったのでした。

また「敵がエネルギータンクを襲ってくる」という設定としたため、
そこから更にどうして敵がエネルギータンクを襲うのかという疑問にも答えなければならなくなり、
それに対して「敵のボス復活のためにエネルギーが必要だから」という、
ありふれた解答を用意することとなった、これ自体は別に大した間違いではない。
「シンケンジャー」でも三途の川の水を増やしてドウコクを復活させるというのが
敵の作戦の根幹であったし、
「ゴーバスターズ」と同時期放送の「スマイルプリキュア!」でも
悪の皇帝復活のために毎回敵が人々からバッドエナジーを奪おうとしました。

こういう作劇パターンの場合、物語を進めていくためには
敵の欲するものは奪わせていかないといけない。
外道衆は人々を苦しめて三途の川の水をじわじわ増やしていったし、
バッドエンド王国も毎回ちゃんとバッドエナジーを集めていきました。
つまり「シンケンジャー」においても「スマイルプリキュア!」においても
ヒーローは敵の怪人は倒すものの、敵の企みを完全に阻止することは出来ていないのです。
だが、だからといってシンケンジャーやスマイルプリキュアが
弱いとかだらしないとか非難されることはあまり無い。

一方、ゴーバスターズが毎回エネトロンを奪われると弱いだの失敗しただのという悪印象を持たれる。
同じことをやっているのに扱いの差があるというのは理不尽だが、
これは結局はキャラに魅力があるかどうかで差がついてしまっているのです。
ゴーバスターズ3人のキャラに魅力が無い状態なので、
作戦でちょっとでも失敗するとますます弱く見えてしまう。
これは仕方ないことです。

いや、厳密に言えば「スマイルプリキュア!」はキャラ魅力は確かに特化していましたが、
「シンケンジャー」の場合はキャラの魅力という意味では実は歴代戦隊でもさほどでもない。
「シンケンジャー」の場合は地味目なキャラを素晴らしく見せていたのは
ストーリーの素晴らしい盛り上がりでした。
「ゴーバスターズ」も最初にキャラが明らかに地味で面白味が無いことを知った時、
これはおそらく「シンケンジャー」同様、ストーリーの盛り上がりで
キャラを引き立たせるタイプの作品なんだろうと思いました。

ところが意外なほどストーリーが盛り上がってこなかったのです。
今にして思えば「ゴーバスターズ」は「シンケンジャー」ほどは
ストーリー重視の作風ではなかったのでしょう。
「3×2戦隊」の構想に頼るところが大きかったのだと思います。
だからさほど凄いストーリーの仕掛けは用意していなかった。
ゆえに「3×2戦隊」の構想が破綻した後、空っぽになってしまい、
あとは用意していた設定が全て悪循環してしまい、
ゴーバスターズ3人のキャラ描写に失敗してしまったのです。

そして、こうして初期メンバー3人のキャラがつまらないものになってしまったため、
そのシワ寄せが追加戦士の陣とJに押し寄せることになったと思われます。
陣というキャラが最初から13年前の事件の被害者であるアバターとして登場したことから考えて、
おそらく最終話の展開は当初からの予定通りだったのでしょう。
ならば陣のキャラは本来はもっとシリアスなものであったはずです。
実際、演じた松本氏の証言では当初は陣は影のあるマッドサイエンティストの
キャラであったようです。
おそらくJもその風貌からして陣に合わせてクールな戦士キャラのはずだったのでしょう。

だが初期3人が暗いイメージのまま好転しなかったので、
そこに更に暗い追加戦士というわけにもいかず、陣は陽気なキャラに変更され、
Jも天然おバカキャラに変更されたものと思われます。
また初期バディ3体を留守番キャラにしたのは明らかに失敗だったので
Jはちゃんと戦場に出て相棒である陣とペアで戦うキャラとなりました。
これがゴーバスターズの本来の在り方だったのだと思います。

だが、これでゴーバスターズがちゃんと絆で結ばれた
普通の戦隊のレベルに達することが出来たかというと、それはやはりダメでした。
まずJは他のバディ3体が留守番をしている中でただ1体だけ戦場に行ってしまうので、
他のバディ達との絆が深まらずバディ仲間で浮いた存在となってしまった。
そして等身大戦とロボ戦の同時進行フォーマットのために
陣とJのペアが初期3人と別行動となることが多く、
Jはヒロム達3人とも絆が深まることはなかった。

そもそもJの性格設定にも問題があり、
陣を人懐っこい陽気キャラにしたのとバランスをとるためだったのか、
Jは絡みづらい天然キャラになってしまい、
ある意味気難しい、近寄りがたいキャラとなってしまった。
これではヒロム達とはまた違った意味で孤高キャラです。

そして陣の方はというと、一見陽気なので誰とでも仲良くなりそうに見えるが、
この物語において陣の果たすべき役割が根本的に陰性のものなので、
どうしても影のある部分が見え隠れして、陣の陽気さは底抜けの本気の明るさには見えません。
演者の松本氏のイメージもそれに合致しており、
そういう意味では絶妙のキャスティングだったとは思うが、
そのキャスティングの良さが真に理解できたのはようやく最終話になってからのことであり、
当初は単に陽気ぶってる陰気な人にしか見えず、
陣というキャラの登場によって作品のイメージが一気に明るくなるとか、
そういう効果はそもそも期待できるはずもない。

そして陣のこの物語の随所で果たすべき役割が悲劇的で陰性のものなので、
どうしても無理にキャラ変更した陽気な性格と齟齬が生じてしまい、
陣はなんとも使いづらいキャラになってしまった。
それでキャラの矛盾が大きくなりすぎないために、
中盤以降は陣の出番自体が極端に減ってしまい、
もともと等身大戦とロボ戦の同時進行設定のために
Jと共に別行動組になることも多かったため、
陣は相棒のJともども、なんとも影の薄い、単なる補助戦闘要員となってしまいました。
こんな体たらくでは陣とJに作品を立て直すことなど出来るわけはなく、
変にウイークポイントは無い代わり、パワーアップもしなかった陣とJは
中盤以降クライマックス前まではほとんど空気でした。

このようにこの「ゴーバスターズ」という作品は、とにかく戦隊メンバーになんとも魅力が無い。
ストーリーは終盤は一応上手くまとめましたが、全体的にはさほど素晴らしいものとも言えず、
キャラの魅力不足を補うにはあまりにもパワー不足のストーリーだったと言わざるを得ません。
アクション面でも等身大アクションはキャラの地味さや
武器の地味さもあってとにかく地味でしたが、
やはり致命的であったのはロボ戦との同時進行が多かったために全員揃って戦うことが少なく、
戦隊アクションとして致命的に地味でした。

一方、ロボ戦のアクションはさすがに重視していたポイントであるだけに
見応えのあるものであったのは正直に認めますが、
戦隊アクションの醍醐味である合体ロボのアクションの良さが削られての上での見応えですから、
戦隊ロボアクションとして満点の出来というわけではない。
なんといってもあまりにエース偏重が過ぎたためにエース以外のロボ玩具が売れず、
エースは単価が安いので結局は玩具売上がかなり悪い結果になってしまったのは問題です。
もともとロボ玩具売上を向上させるための改革であったのに、
その目的が達成出来なかったのは本末転倒といえます。

もちろん玩具が売れなかった原因の1つにはキャラの魅力不足があるわけで、
キャラの魅力不足の原因がこの作品の根本思想から導き出されてしまっているのですから、
つまりはこの作品の目指していた方向性が根本的に破綻していたという
結論で間違いないと思います。

ここまで明らかにダメなのですから、
本来ならば途中で等身大戦とロボ戦の同時進行を止めるなどの根本的な路線変更をして
キャラ設定も大幅に変えるべきであろうし、
そうすれば持ち直した可能性も十分にあるのですが、
「ゴーカイジャー」の後番組ということで「総決算の後の変革」とぶち上げてしまった手前、
容易に路線変更が出来ない状況に自らを追い込んでしまい、
途中で明らかにテコ入れめいた流れになりかけたものの、
結局は根本的な部分は変わらないまま最後まで低調で終わった作品といえます。

後半などは迷走の挙句バトルの基本設定が変わってしまい
敵がエネトロンタンクを襲う必然性が無くなってしまったため
巨大ロボが何の目的で出現するのかさえ不明な状態となってしまい
復活怪人の最後の悪あがきというわけでもなく、エネトロンを奪うためというわけでもなく
単に物言わぬ巨大ロボが目的不明に送り込まれて暴れて倒されるだけという
むしろシリーズで最もロボ戦が無意味、意味不明な作品となってしまいました。
これではこの作品が目指したものと正反対のところに堕ちていったと言っていいでしょう。
これではロボ玩具など売れるはずもない。

ここまでロボ戦が無意味なものとなったのなら、
いっそ等身大戦とロボ戦の同時進行もやめてしまえばよかったのですが
それは何故かこだわり続けたというのは、
作品そのものを救うよりも魅力の欠けたキャラ設定との心中を選んだということのように思えます。

だいたい、こんな作品の根本構造を崩壊させるような路線変更が
「当初からの予定通り」などであるはずがない。
明らかなテコ入れであり、しかもそのテコ入れに失敗している。
それを「当初からの予定通り」であったかのようにして済ますのは不誠実というものでしょう。
間違いを間違いと認めきれない中途半端さが結局テコ入れも中途半端にしてしまい失敗を招いたといえます。

まぁしかし、キャラ設定をはじめとした様々な面白味の無い要素や
矛盾した部分や説明不足でイライラする部分などを出来るだけ見ないようにして
純粋にストーリーだけを観れば、それなりに味わい深い作品ではあります。

まぁ、何はともあれ「獣電戦隊キョウリュウジャー」の第1話は大変面白かったので
気分一新、一視聴者として楽しませてもらいます。
ゴーカイジャーなどの記事の合間にキョウリュウジャーについても触れることもあるかもしれませんが
キョウリュウジャーはホントに普通に楽しめそうなんで
特にブログで何かゴチャゴチャ言うこともないような気はします。
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posted by 通りすがりのシンケンブラウン at 13:31 | Comment(3) | 特命戦隊ゴーバスターズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月14日

特命戦隊ゴーバスターズ完結

スーパー戦隊シリーズ第36作「特命戦隊ゴーバスターズ」が
先日、最終話を迎えてその物語を完結しました。
終わってみて、この物語がどういう物語であったのか腑に落ちました。
それは極めて明確でシンプルでした。
おそらく最終話を観た人のほとんどは理解したことでしょうが、
この物語は生者と死者の物語でありました。
最後にヒロムがエンターに言い放った
「人間は不完全だから繋がることや想いを託すことが出来る」というセリフに
この作品のテーマが凝縮されているのでしょう。

このヒロムの言う「不完全」に対比されるエンターの「完全」とは具体的にどういうものなのか、
このあたりは割と不明確なのですが、
データの塊であるがゆえに簡単にコピー&ペーストが可能であるかのように、
何の努力も無く他人の能力や特性をコピーして
自己の能力を無限に拡大させていくことが可能であるという点がまずは挙げられます。
最終盤のバトルにおいてエンターは
ヒロム、リュウジ、ヨーコの能力を容易くコピーして攻撃を繰り出してきており、
そのあたりの「完全性」はアピールはされています。

ただ、エンターのコピーしたヒロム達の能力自体が
エンター自身が「不完全」と蔑む人間の能力に他ならないのであり、
実際ヒロム達は無敵の能力を誇っているわけではない。
だから、不完全な人間の能力をいくら付加していったところで完全に到達することはないわけです。
まぁエンターが目指していたのは何万人もの人間との融合、
つまり何万人もの人間の能力の獲得ですから、
そこまでいけば「完全」に近い存在になるのかもしれない。
ただ、それを阻止すべくゴーバスターズが戦いを挑んでくるわけで、
現時点ではエンターはヒロムの身近な人間たちの能力しかコピー出来ていない
不完全体であるのですから、少なくともこの最終話の段階の劇中では
エンターの「完全性」として、この無限に能力を拡大する恐怖は未来予想図でしかなく、
まだ現実に存在する脅威としては描写されていません。
まぁ簡単に言えば、戦って倒すことは可能なのです。

実際、エンターは決して戦闘において
歴代スーパー戦隊シリーズ作品のラスボスのように圧倒的に強いわけではなく、
年明け以降のクライマックス展開の中でも何度も倒されています。
その中にはわざと倒されている場合も多いのですが、
それでもその身が滅して倒されているのもまた事実であり、
歴代ラスボスに比べてエンターは明らかに脆弱な存在といえます。

最終話の1つ前の49話においては
遂にゴーバスターズの必殺技の波状攻撃を喰らっても倒されないまでになり、
エンターがより完全体に近づいたことは明示されました。
ただ、それでも結局最後までゴーバスターズの攻撃を全く寄せ付けず圧倒するというほどの
歴代ラスボス級の超越的な強さを獲得する段階までは到達できませんでした。
おそらく手をこまねいて放置していればそこまで到達したのだろうと思います。
つまりエンターは歴代ラスボス級の強さに進化途上の存在なのであり、
進化途上で完全に倒されてしまったのだと思われます。

そう考えると、やはりこの「ゴーバスターズ」という作品で真のラスボスといえたのは
クリスマス決戦で倒されたメサイアだったといえます。
あのメサイアにしても中盤の亜空間篇では全く不完全な状態で一旦倒され、
その後バックアップデータで再生して進化して遂にクリスマスに現実空間で暴れ出したが、
それでもまだ完全体に到達前の段階で
ゴーバスターズの総力を結集した攻撃で倒されてしまいました。
が、あの段階のメサイアの方が今回の最終話で倒されたエンターよりも、
より完全体に近づいていたのは明白です。

だからやはりこの作品で歴代ラスボスに比類し得るキャラを1つ選べと言われたら、
やはりクリスマス決戦篇のメサイアを挙げるしかなく、
年明け以降のエンターはヴァグラスの残党の幹部キャラが新たなラスボスに進化しようとして
途中で倒されたということになり、
なんだかこれだけだと来年の「キョウリュウジャーVSゴーバスターズ」あたりでやっても
良さそうな程度の話にも見えます。

だが実際は年明け以降の展開はそんな無内容なものではなかった。
いや当初は残党狩りのオマケ感をかなり感じていたのですが、
エンターのバックアップデータがヒロムの中にあると示されて以降は、
ちゃんとクライマックス篇として盛り上がってきました。
クリスマス篇でメサイアを倒して、年明け最初のエピソードはギャグ回で、
その次の46話でエスケイプが復活再登場しました。

そういえばエスケイプというキャラも彼女の欲する「いいもの」というのが漠然としすぎていて、
結局何だかよく分からないままクリスマス篇で倒されました。
おそらく欲するものが漠然としていることが
彼女自身のデータの塊に過ぎない空虚さの象徴なのであろうとは思います。
エンターが自身がデータの塊であることを肯定的に捉えるキャラであったのと対照的に、
エスケイプは無意識的に自身がデータの塊であることを虚しく感じて
否定的に捉えていたキャラであったのでしょう。
そういう位置づけはどうにか分かるのですが、
エスケイプの行動が常にあまりにも短絡的で自暴自棄な感じであったので、
彼女の内面の空虚に起因する悲哀はあまり滲み出ることはなく、
単に親に甘える幼児、酷い時は単なる欠陥品の暴走のように見えることが多かったのでした。
これは緻密なエンターとの対比で
エスケイプを直情的なキャラに描こうとしすぎた結果ではなかろうかと思います。

そういうわけで結局何だかよく分からないキャラのまま倒されてしまったエスケイプが
年明け46話で復活再登場したわけですが、
ここでのエスケイプはもはや元のエスケイプではなく
単なるエンターに忠実な抜け殻の玩具のような存在になってしまっており、
本来のエスケイプというキャラはクリスマス決戦でよく分からないまま終了しているといえます。
ただ、だからこそ、この新たなエスケイプというキャラにちょっとした期待はありました。
元の意味不明キャラのエスケイプとの連続性が断たれている分、
このエスケイプは意義あるキャラになるかもしれないとも思えたのです。

すると46話から47話にかけて、
エスケイプ自体のエンターに対する目線が以前とは劇的に変化したのを受けて、
エンターのエスケイプへの接し方も大いに変化し、
何やら屈折した愛憎めいたものが表面化してきました。
これは以前から少々は兆候はあったのですが、
エスケイプとの接触を通じてエンターの中に人間性が芽生えてくるような描写といえます。
まぁ陳腐といえば陳腐なのですが、
ハッキリ言って何の面白味も無いキャラであったエンターに
ここにきて初めて人間臭さが現れてきたのはドラマ的には盛り上がりポイントです。
つまり、この新エスケイプはもはや彼女自身は何ら意味の無い抜け殻キャラに過ぎないのですが、
エンターの変化を促すという意味で物語において
重要な意味をなす存在になるのではないかとも考えられたのです。

エンターはデータの塊であって人間ではない。
そのエンターは人間になろうとしていました。
それは中盤の亜空間決戦でヒロムに敗北した時に人間というものに興味を持ったからなのですが、
エンターはどうも人間のデータをたくさん集めれば「完全な人間」になれると思ったようです。
それで亜空間決戦後、人間のデータを収集するメサイアカードを使った作戦を実行したわけですが、
こういうエンターの考え方は実は完全な錯誤に基づいています。
何故なら人間とは不完全な存在だからです。
人間のデータをいくら集めても完全な人間などにはなれません。
不完全さにしか辿り着けないのです。

クリスマス決戦以前のエスケイプというのはデータの塊でありながら
この人間的な不完全さに憧れてしまっているようなキャラであり、
当初は完全な人間を目指していたエンターも
メサイアカード作戦を遂行する中でエスケイプとの接触を重ねて影響を受けてしまったのか、
いつしか不完全な人間性に目覚めるようになってしまっていた。
その象徴がクリスマスに消滅したエスケイプを復活させて
玩具のように扱い愛憎を向けるようになったエンターの行為といえます。

人間は完全な存在にはなれない。
そうした人間の真実を理解できない人外が
人間になることによって自己が完全になれると無邪気に思い込んで突っ走る。
そこには悲劇が必ず生じます。
そうした「人間を知らない人外の悲劇」を通して人間の真実の姿を浮き彫りにするという
作劇手法は古典の名作としては「ピノキオ」が挙げられ、
特撮では「キカイダー」という名作があります。
だから、この作品でも
「完全な人間を目指しながら不完全な人間性に目覚めてしまったエンターの悲劇」というものが
描かれるのかと一瞬思いました。
そうしたエンターの悲劇との対比でゴーバスターズを描き、
人間の真の姿を描こうというのがこの作品の趣旨であったのかと、
47話辺りではそのように考えていました。

まぁ大筋ではこうした見方は大外れというわけではなかったかもしれません。
完全な人間になることなく倒されたのはエンターにとっては十分に悲劇であり、
そもそも無理なことをやろうとしていたという意味で滑稽さや哀れさもありました。
だが、そうした「エンターの悲劇」という要素はエスケイプ切り捨てと共に
48話から急速にフェードアウトして表面からは消えてしまい、
エンターは単なる記号的な「倒すべき巨大な悪」になってしまいました。
敵としては強大化肥大化しましたが、むしろキャラとしては矮小化してしまった印象です。

エスケイプも最後までエンターの不完全な人間性を繋ぎ止める錨のような役目を果たして
最後の最後まで物語に付き合うのではなく、
あっさりエンターに捨てられることによって、
エンターが不完全な人間性に完全に決別して完全な人間を目指すという決断の
象徴的役目を果たして出番を終えてしまいました。
エスケイプを捨てることでエンターの中の不完全な人間性への拘りが消え去り、
もともとの「完全な人間を目指す」というエンターになってしまったため、
エンターの中で葛藤が消え、悲劇的な要素が無くなり、
ただ単に無理なことをやって必然的に失敗して敗れ去ることが容易に予想できる、
平板でありふれた悪役に堕してしまったといえます。

つまり制作サイドは「エンターの悲劇」をちゃんと描くことは放棄したのです。
ここで「放棄」と言った理由は、
46話から47話にかけては明らかにエンターの悲劇へのイントロのように描かれていたからであり、
それが48話で突然フェードアウトしたので放棄したように見えたからなのですが、
これは誤解かもしれません。
もともと制作サイドはエンターの悲劇など描くつもりは無く、
あくまでエンターは平板な悪役として扱うつもりだったのかもしれません。
ただ、制作サイドが妙にエンターというキャラを気に入っていたので、
最後にちょっとエンターのキャラ的な深みのある見せ場を作ったという、
単にそれだけだったのかもしれない。

案外そんなところだったのではないかと思います。
エンターがエスケイプと関わったために不完全な人間性に目覚めかけるという展開は、
このクライマックス篇の本筋には実はあまり関係無く、
単なるキャラ愛ゆえのオマケみたいなものであって、
あくまで本筋ではエンターは「完全な人間」という完全なる錯誤を目指す
無機質な狂ったモンスターに過ぎない。
それが制作サイドの意思でしょう。
そこに悲劇は見出すことは出来ないことはない。
だが、決して前面に打ち出されてはいません。

では制作サイドがこのクライマックス篇で描きたかったものは何なのかというと、
エンターは結局つまらないキャラで終わってしまったわけですから、
エンターを通して何かを描こうとしたわけではない。
そうなると当然、エンターに対峙するゴーバスターズを通して
何かを描こうとしたということになります。
ただクライマックス篇の物語を引っ掻き回す主体はあくまでエンターです。
つまりエンターの行動に対するゴーバスターズのリアクションが
物語のテーマに繋がっているのであり、
そうなるとエンターの行動が重要なポイントであるのは間違いない。

そのエンターの行動は「完全な人間」になろうとすることです。
それに対するゴーバスターズ側のリアクションですから、
「完全」に対比したゴーバスターズ側の「不完全」、
つまり人間の不完全さが結局、この物語のテーマなのです。

しかし「完全な人間」といってもエンターの強さ的に「完全」とはいえないことは前述しました。
そうなると、このクライマックス篇におけるエンターの「完全」というのは強さではなく、
倒されても何度でも再生可能である点、つまり「不死」という点なのでしょう。
まぁこれもあくまで「データが残っている限り何度でも再生可能」というだけのことに過ぎず、
データを破壊すれば復活再生は出来ないのですから真の意味での「不死身」「完全」にはほど遠い。
メサイアもエスケイプも同様の手法で復活再生しましたが、
結局データが失われることによって消滅しました。

だからエンターの言う「完全」というのは実は徹頭徹尾まやかしであって、現実性は全く無い。
こういう点からもエンターの「完全な人間」など実に薄っぺらい脅威に過ぎず、
このエンターという悪役は本来ならちょっとした侮蔑の対象程度の存在でしかありません。
実際、ゴーバスターズの面々もエンターがバックアップカードの所在について
衝撃の告白をするまではエンターのことなど大して歯牙にもかけていない様子でした。

エンターのバックアップデータがヒロムの中にあることによって、
ヒロムが生きている限りエンターは「不死」の存在となる。
ヒロムが自分ごとカードを削除すればエンターも不死ではなくなり倒すことは出来る。
しかしヒロムが死ぬことを躊躇している限り、
エンターは不死であり完全な存在であり続けるといえる。
つまりヒロムという人間の死への恐れがエンターを完全たらしめている。
「完全」と「不完全」が対比される関係にあるとするならば、
人間の「死に対する恐怖」こそが人間の不完全さであり、
エンターを完全な存在としてしまっているということになる。

いや、エンターも死に対する恐怖が無いわけではない。
恐怖という感情は理解出来ないかもしれないが、
バックアップデータを削除されて自分が不死の存在でなくなってしまうことは困ることだと思い、
避けなければいけないと思っている。
そういう意味では相討ち覚悟ならば対等の勝負は出来る。
実際、ヒロムは48話において捨て身でエンターと交渉しようとした。
あの作戦は結局はヒロムの体内のカードに阻まれて失敗したので、
ヒロムが自分を犠牲にする作戦は不可能であるかのような印象になっているが、
実際はそんなことはない。
大筋ではあの方向性で間違ってはいないのです。

あの48話のシーンをよく見ると、
あの時ヒロムは相討ち直前の状況を作り出してエンターを脅して
カードを抜き取らせようとしていたのであって、あくまで死のうとしていたわけではない。
「死んでも構わない」という姿勢を見せてエンターの譲歩を引き出そうとはしていたが、
実際は本当に死ぬつもりだったわけではなく虚勢だった。
いやヒロム自身、本気で死んでもいいと思わなければ
エンターを脅すことなど出来ないと分かっていたであろうし、
本気で死ぬつもりで作戦に臨んだのだろうと思う。
だが、それでも実際はヒロムの死の覚悟は偽物で虚勢に過ぎなかったのは、
そのシーンを見ていればよく分かる。

炎に包まれた状態でエンターに抱きつき
相討ち覚悟でカードの抜き取りを要求してくるヒロムを嘲笑ったエンターが
自ら自爆した時、ヒロムはパワードスーツ化して自分と一体化していたニックに
思わず逃げるよう叫びました。
あそこまでの状況に至って死の覚悟も出来ていたのならば、
今さらニックを逃がすことなど考える方がおかしい。
ニックも共に死ぬのが当たり前です。
あそこで自分が真っ先に逃げ出さなかったのは
さすがに一応は死の覚悟を自分に言い聞かせていたヒロムの意思の強さの表れだとは思いますが、
それでもニックだけは逃がそうとしたということは、
ヒロムの計画はあくまでエンターにカードの抜き取りをさせて
自分もニックも死なずに生還するということを目標としたものだったということが分かります。

その前に高層ビルから飛び降りようとしていたのも、
きっとエンターが現れて止めようとするという計算に基づいた
巧妙なエンターおびき出しの計略であって、
確かにヒロムのクールでクレバーな頭脳戦の妙ではありますが、
結局は決死の覚悟とはほど遠い。
死んでもいいとは思いつつ、出来れば死にたくはない、
ニックと一緒に無事に生きて帰りたいという欲求をゼロにすることは出来ていないわけです。

だから脅せばひるむと思ったエンターが逆に強気になって自爆攻撃を仕掛けてきたので
ヒロムは生命の危険を感じて慌ててしまい、
思わずニックに向かって逃げるようにと叫んでしまった。
そしてヒロム自身は逃げずに、いや逃げ切れずに、エンターと共に爆発してしまったのですが、
エンターは跡形も無く吹っ飛んだ一方でヒロムは体内のカードから出た
硬質のワイヤーのようなもので包まれて無傷でした。

このワイヤーがほどけてその下から現れたヒロムの姿が注目点で、
この時ヒロムの顔はこわばり、
身体的ダメージは無いにもかかわらずヒロムはその場にへたり込みます。
要するに腰を抜かしてしまったわけです。
つまりヒロムは爆発の直前までエンターに向かって死を覚悟していると言いながら、
実際は爆発の瞬間、死の恐怖に腰を抜かしていたのです。
死んでもいいと言いながら、本当は死にたくなかった、死ぬのが怖かったのでした。
このヒロムの生への欲求、死に対する恐怖に反応して
体内のカードがヒロムの身体を守ったのではないでしょうか。

本編中にはそのようにハッキリとは言及されてはいません。
だが、それでもそうではないかと思う理由は、
結局このカードは最終話で陣の身体に移し替えられて簡単に破壊されているからです。
カード自体に自己防衛機能のようなものが備わっているのならば、
宿主がヒロムであっても陣の本体であってもどちらでも関係無く
カードに破壊の危機が及んだ時に防衛機能は発動するはずです。
なのに陣の本体に移されたカードはあえなく破壊された。

おそらくカード自体を守る機能などは無いのです。
カードが宿主を守る機能だけが備わっているのであり、
そしてヒロムが宿主である時には発動した防衛機能が
陣の本体が宿主である場合は発動しなかったということは、
カードは無条件に宿主を防衛するわけではなく、
宿主の条件によって防衛機能は発動したりしなかったりするようです。

ただ、それがあまりにもランダムな条件である場合は
果たしてヒロムを宿主とした場合にその防衛機能が発動するかどうか
エンターが予想することが出来ないので困ってしまいます。
だから必ずヒロムがその条件を備えているとエンターは予想していたはずです。
それゆえエンターは自信満々でヒロムと密着した状態で自爆することが出来た。
つまり、このカードの防衛機能発動の条件はかなり普遍的なものであるはずで、
それでいて何故か陣の本体が宿主の場合は発動しなかった。
ならばヒロムおよび多くの人間の持つ特徴と陣の本体の持つ特徴の差異を考えれば
自ずと答えは明らかです。

ヒロムや他の人間は生きている普通の人間であるのに対して、
陣の本体は生きているとはいえないデータの塊に過ぎませんでした。
しかもカード破壊作業に着手した段階で陣は完全に生きることを諦めてしまっていました。
そして48話でのエンター自爆時にヒロムの見せた生への執着と死への恐怖の反応を考え合わせると、
カードの防衛機能は宿主の生きた人間ならば当然捨てきれない生きることへの執着と
死への恐怖に反応して発動し、
宿主の生きたいという欲求に応えて宿主の身体を守るのだと考えるのが
最も自然ではないかと思います。

ヒロムは48話で作戦が失敗した時、自分の決死の覚悟が所詮は虚勢に過ぎず、
死への恐怖をどうしても消し去ることが出来ないことを思い知らされた。
そしてカードがそうした自分の生きたいという欲求に応えて
自分を守ったのだということを悟ったのでしょう。
だから打ちのめされて、その後はもうカードごと自爆することなど試みることはなくなった。

次は取引などというまだるっこしいことではなく、
完全に死ぬつもりで自爆してみてもいいかもしれないし、
バスターマシンで捻り潰すとか核爆弾を使うとか、
あるいは48話で陣やリュウジが相談していたような、
一旦ヒロムを転送状態にしてヒロムがバラバラになって元に戻れなくなること前提で
強引にカードを抜き取って破壊するという方法など、いろいろ試す価値はあります。
しかしヒロムはそれらを試す意義はもはや無いと諦めた。
どのような方法を試してみたところで、ヒロムの心に生存欲求が僅かでもある限り、
きっとカードの防衛機能によって自分は死ぬことが出来ないのだとヒロムは理解したのでしょう。

49話においてリュウジがヒロムに向かって、
ヒロムを削除しなければいけないのならその時は自分がやると熱く語りましたが、
それは絆や覚悟の確認というだけの意味でしかなく、
実際的にヒロムを削除することは不可能であることはリュウジも理解はしていたはずです。
そう考えなければ最終話で陣が自分が犠牲になると言い、他に方法が無いと言った時に
ヒロムやリュウジが対案を出さなかったことが説明がつきません。

ヒロムやリュウジはその時点でとりあえず誰も犠牲にならないで済むような解決策を
期待していたわけですから、そこに陣が犠牲になるような案を出されても、
それはヒロムが犠牲になる案と変わりないわけですから、
当然ヒロムやリュウジはヒロムが犠牲になる案を対案として出すはずです。
特に一旦ヒロムを転送状態にしてからカードを破壊する案は、
陣が自分の身体でやろうとしている案とほぼ同じ案であり、
陣の案の成功の可能性とヒロム転送案の成功の可能性は普通に考えて大差無いはずです。
陣の案だって偉そうなこと言っていますが試したことがあるような案ではないのだから、
ヒロム転送案に比べて大して優位な案ではないはずなのです。
まさか陣は犠牲になってもいいがヒロムは犠牲になってはいけないなどという
考え方をあの場に居た者の誰も持っているわけもなく、
陣が犠牲になるというのならヒロムが犠牲になる案が対案として出てきても全くおかしくはない。
また、ヒロムが宿主の場合は発動しているカードの防衛機能が
陣が宿主になった場合に発動しないなどという保証は無い。

陣が確実に出来るだろうと思っていることは、
ヒロムの身体から自分の本体にカードを移すことだけです。
その後どうなるのかは実は未知数であり、
だからこそ陣はこの案を「試す価値はある」としか言っていない。
もしかしたら陣の本体に移したカードも防衛機能を発揮して
陣の本体がバラバラになることを防ぐかもしれない。
その場合は陣は死なずに済みますが、カードも破壊されず
エンターは不死の存在であり続けてしまい、世界の危機は去りません。
そういう最悪の可能性もあるわけですから、
それならヒロムを転送状態にしてカードを抜き取る案だって十分立派な対案になるということは、
普通に考えればヒロムにもリュウジにも分かるはずです。

なのにヒロムもリュウジも「対案があるのか?」と問う陣に何も言い返せず、
陣の案を受け入れるしかなかった。
それはつまり、ヒロムの体内にカードがある限り破壊は困難だと
納得してしまっているということであり、
一方で陣の本体にカードを移せば破壊は可能だと思っているということです。
そのヒロムと陣の扱いの差がどこから来るのかというと、
ヒロムやリュウジが「カードの防衛機能は宿主の生存欲求に反応して発動する」ということを
理解しているからだと考えるしかない。
ヒロムは普通に生きている人間の本能として、どうしても生存欲求を完全に消すことは出来ない。
しかしデータの塊に過ぎず、破損なども激しくてもはや生還は絶望的な陣ならば
生存欲求はゼロにすることは可能だと、陣もヒロムもリュウジも理解は出来たのでしょう。

もちろんそれとて100%成功確実な案ではない。
陣だってこれまで必死で生還しようとしてもがいてきたのですから生存欲求はあります。
カードのデータを自分の本体に移せば自分はバラバラになってしまうから諦めがつくとも言えますが、
もしそれでも生きたいと陣が思えばそれに反応してカードが
陣がバラバラになるのを防ぐ可能性もあり、
陣ならばその可能性も分かっているのですから、
そうしたあらぬ期待に心動かないとも限らない。
だから陣としてもこの方法が上手くいくかどうか、
本当に最後の最後まで確実な自信があったわけではないでしょう。

最初は陣は自分の本体がバラバラになることはヒロム達に告げずに
黙って自分の案を実行しようとしていましたが、
おそらくあのままやっていたら、ギリギリのところで陣の生存欲求が顔を出してしまい、
カードが陣がバラバラになるのを防いでしまい、
エンターを倒せなくなってしまったでしょう。

陣が最終的に生への執着を捨てて死の恐怖を克服できたのは、
むしろJの空気を読まない発言によってヒロム達に陣の案の全貌がバレてしまい、
猛反発を喰った結果、陣がヒロム達を説得したからでしょう。
お蔭でヒロム達は陣の説得を受け入れて、
陣の託した想いをしっかりと受け止めることになった。
その姿を見たことによって陣は自分の想いを継ぐ者たちの存在に安心し、
遂に完全に生への未練を断ち切ることが出来たのでしょう。
そうして完全に死を受け入れることの出来た陣の身体に移されたカードは
防衛機能を発揮することなく、あえなく破壊され、
エンターの不死性は崩れ去り、その野望は潰えたのでした。

このように見ていくと、エンターの嘲っていた人間の不完全さとは、
「死の恐怖を克服できないこと」のように思えます。
実際ヒロムは結局は死の恐怖は克服できなかった。
どんなに普段勇ましく戦っていても、それでも生きている限り、死は怖いものです。
ヒーローとして情けないと言われるかもしれないが、それが人間の真実であり、
この「ゴーバスターズ」という作品はそこの部分はヒーロー番組でありながらも
正直に描こうとしたように思えます。

思えばゴーバスターズはそういう意味で「弱さ」が強調されたヒーローであり、
荒唐無稽なまでに強い痛快ヒーローを好む層からはあまりウケは良くなかったといえます。
正直言って、子供向けの正統派ヒーロー番組としてはこの制作姿勢は正解ではないと思います。
ただ、そういうリスクを負ってまで描きたい何かがあったのでしょう。
そういう意味で、決して成功作ではないですが、ある種の意欲作ではあったと思います。

よく言われるのはハードSFとか、メカニック描写の面で意欲作であったという意見ですが、
私は正直言ってこれらの面でこの作品が意欲作であったという印象はあまり無いです。
スーパー戦隊シリーズの過去の作品でも毎作品で
SF的にもメカニック的にも意欲的な試みというものはあり、
それらに比べてこの作品が特に突出した試みをしていたとは思えないからです。
最新作品ですから当然、制作サイドはもちろん特撮雑誌などでも
「史上最高」という持ち上げはしますから、
そのムードに乗っかってファンもすっかりその気になってしまうものです。
これは毎年起きるお馴染みの現象に過ぎません。
また、この作品の持つSFやメカニックの方向性が自分の好みにたまたま合致した人が
一生懸命「今までで一番凄い意欲作」と持ち上げているだけであって、
一方ではこんなものは全然良くないと思っている人もいます。
これもまた例年と同じ現象でしかないです。
だからSFやメカニックなどの面は、まぁ例年並みの作品という印象しかないです。

実際、SF考証などはこの作品はかなりいい加減です。
エネトロンもアバターもワクチンプログラムも結局何だかよく分からないままでしたし、
13年前の事件の経緯も曖昧なままです。
どうもこの作品、SFを前面に押し出しているものの、
実際はSF設定を真面目に詰める気が無かったのではないかとすら思います。
それはまぁ怠慢といえば怠慢ですが、
根本的にはSFを描きたかったわけではなく、他に描きたいものがあって、
そこに上っ面だけSFを被せたものだから、
ついついSF設定の方はいい加減になってしまったのでしょう。

この作品で真に意欲的に描こうとしたものは、ヒーローではなく人間そのものであり、
特にその中でも人間の根っこともいえる「死」について描こうとしたのではないかと思えます。
普通はこんな暗いテーマは子供向けヒーロードラマでメインで描くのは回避されるものであり、
だからこそ、ある種の意欲作だと思った次第です。
どうしてそんな暗い「死」などを描こうとしたのかというと、
陳腐ではありますがこの作品の場合はそうした陳腐な説がよく言われているので
この際便乗して言わせてもらいますが、やはり東日本大震災の影響があるのでしょう。

震災の後、当初は生き残った人々が巨大な絶望の中から
どうやって立ち上がって生きていくのかが問題となっていました。
震災発生から1年弱の時点で最終話を迎えた去年の「ゴーカイジャー」は
それに1つの答えを出した作品でありました。
一方、震災発生から2年弱の時点で最終話を迎えた「ゴーバスターズ」は、
1年の時間の経過によって生じた少々の余裕からか、
震災を生き残った当事者自身の問題から少し視野を広げて、
震災で亡くなった人々との関係性を
震災で生き残った人々がどう捉えるべきであるのかが描かれたように思います。

エンターは人間が死の恐怖を克服できないことを不完全さだと見なして嘲りました。
エンターはデータの塊で感情は無いので死の恐怖はありません。
そしてデータの塊であるゆえにバックアップがあれば何度でも再生可能であり
不死、完全な存在たり得ます。
エンターはその自分の完全性のカギとなるバックアップデータを人間であるヒロムの中に仕込み、
人間が死の恐怖を克服できない限りバックアップデータが失われないような仕掛けを作りました。

ヒロムが人間としてどうしても死の恐怖を克服できないゆえにエンターの不死性は守られてしまう。
そういう構図ゆえにエンターは人間の不完全さを嘲笑い、自分の完全さを自画自賛します。
この構図において、ヒロムが死の恐怖を克服出来ないがゆえに
エンターの優位を許してしまっているので、
人間が死から逃れられず、死を恐れ続けることは確かに人間の不完全さではあると思います。
そのことはヒロムも認めている。

だが、人間が死すべき不完全な存在であり、死を恐れる臆病な存在であるからこそ、
人は死を特別なものとして畏怖し、死者の遺した想いを尊重することが出来る。
これはデータの塊には出来ない芸当です。
人間は死者の遺した想いを尊重するからこそ、
死んだ者や死にゆく者の想いを受け継いで生きていくことが出来る。
そして、生き残った者が自分の想いを受け継いでくれたことを認識することによって、
死にゆく者は満足して死の恐怖を克服することが出来る。
ヒロム達が自分の想いを受け取ってくれたことを実感したからこそ、
陣は死の恐怖を克服して死んでいき、
その結果エンターのバックアップデータの破壊に成功した。
死の恐怖は人間の不完全さだとエンターは見なし、
死の恐怖の感情の無い自分こそが完全だと豪語したが、
そうした人間の不完全さゆえに死の恐怖は克服され、
それによってエンターの不死性、完全性は崩壊したのです。

この解決法は実はヒロムが誰か自分の想いを受け継ぐ相手を見出して
死の恐怖を克服して死んでいくことでも成立はしました。
例えばヒロムの想いをヨーコが受け継ぐという形でも良かったわけです。
だがその場合はヒロムは死んでしまうわけで、それではどうも物語的にはマズいのです。
この物語はあくまで生き残った人間が死んだ人間との関係性をどう捉えるかがテーマなので、
視聴者の代理たる主人公は「生き残った人間」の側でなければいけないのです。
だからヒロムは死んでいく側ではなく、
生き残って死んだ者の想いを受け取る側でなければいけない。
ならば誰か別の者が死なねばならないのだが、
そこでこの生者と死者の物語の構図をより鮮明にするために、
もともと半分死んでいたような男である陣が用意されたのでしょう。

思えばアバターである陣は幽霊のような存在で、
亜空間に行ったヒロムの両親たちも亜空間篇ではまるで幽霊のような描かれ方をしていました。
亜空間という場所は幽界のようなもので、
ヴァグラスはそこに巣食う物の怪の類で、
現実世界にやって来て命無き無機物に憑依してモンスターとなるとも解釈できる。
つまり、この物語は一見ハードSF的な世界観のように見えて、
実際はかなりファンタジックな世界を描いていたのではないかとも思えます。
よくよく考えれば「ゴーバスターズ」というタイトルも
「ゴーストバスターズ」のもじりなのかもしれません。

ここまでいくと深読みしすぎなのかもしれませんが、
少なくとも最終話で提示されたテーマが
「人間は死んだ者の想いを受け継いで生きていく」ということであるのは間違いないでしょう。
そしてそれはもともとヒロム達が13年前に両親たちの想いを受け継いで生きてきたという
序盤からの展開にも繋がっていく。

こうしたヒロム達の生き方がヒーローとして正しいのかという点では
いろいろと異論もあるでしょう。
死んだ者の想いを受け継ぐだけでは復讐鬼となったり時代遅れになる危険もあります。
自分の意思で物事を決められない主体性の無さに繋がる可能性もあります。
それゆえ、これまでの戦隊では「死んだ者の想い」というものが劇中で扱われる場合は
大抵はそれは「乗り越えられるべきもの」として扱われてきました。
死んだ者の想いは受け継ぎつつ、それを更に超えた自分の独自の生き方を見出していくのが
ヒーローとしてのあるべき姿として描かれることが多かったゆえ、
死んだ者の想いをそのまま受け継いだだけのゴーバスターズの在り方に
ヒーローとして物足りなさを感じる向きもあるでしょう。
いや、私自身物足りないと思っています。

しかし、この物語はゴーバスターズというヒーローをカッコよく見せることが目的ではなく、
あくまで人間と死との関わりを描くことが主眼だったのだと思います。
そういうスタンスのドラマであるのならば、
あくまで生き残った者が死んだ者の想いをそのまましっかり受け継ぐところまでを描くべきなのであり、
その後で受け取った側がそれをどうアレンジしていくのかまでは描く必要は無い。
このドラマにおいては最終話のエピローグにおいて、
生き残ったメンバーのその後を軽く描きながら、
そのあたりについては少し示唆しているようにも思えます。
まぁ通常の戦隊の場合は戦いの中でそのアレンジまで描かれるのですが、
ゴーバスターズは上記のごとく特殊なドラマであったので、
あくまで死んだ者の想いを受け継ぐ段階だけで戦いを完遂するというスタイルになっています。

まぁこのように「ゴーバスターズ」という作品が
何だかそれなりに深いテーマを扱った良作であるかのような文章を
ここまで書いてきてしまいましたが、実は私はそんなことは全く思っていません。
ここまで書いてきたことはあくまで最終話に至る46話以降の
クライマックス篇を見た上での感想であって、
この5話分だけに関して言えば、上記したようなテーマはしっかり描けていたとは思いますが、
1年間通した作品としてはそのテーマは全くちゃんと描けていなかったと
思わざるを得ないからです。

もちろん基本設定である13年前の事件に起因する様々な事象が
このクライマックスの展開に繋がっていたり、
中盤の亜空間篇やクリスマス決戦篇などでも
死者の想いを受け継ぐ生者たるヒロム達が描かれていたりして、
随所でこの物語のテーマは一貫した形で触れられていたようにも見えます。
それでも1年間通してこの物語がこのテーマで一貫していたという印象は無い。

これは確かに難しい作業でしょう。
生者と死者の物語だからといって、
1年間全てのエピソードをその構図で描くことなど出来ません。
全体の物語を進めるために必要な展開はこなしていかないといけないし、
販促回もあるしギャグ回だって必要です。
そうなると1年間バラバラなエピソードの集まりになってしまうのも仕方ないようにも思えます。

ところが従来の戦隊ではエピソードのタイプはバラエティーに富んでいても、
何故かゴーバスターズよりもよほど1年間一貫したテーマでまとまっているように見える。
それはどうしてなのかというと、
主要登場キャラのキャラ設定そのものの中に物語のテーマが上手く込められているからです。
だからシリアス回でもギャグ回でも販促回でも悪役メイン回であっても、
メインキャラがドラマの中で動き回るだけで自然に物語のテーマが描かれることになるのです。

このキャラ設定が「ゴーバスターズ」はかつて見たことがないくらい上手くいっていない。
文字的な設定だけしっかりしていても意味は無い。
実際に劇中で活かされてこそ初めてまともな設定といえます。
そういう意味でゴーバスターズのキャラの設定は全くダメでした。
だから結局この作品は1年間全くテーマの一貫性を実感することが出来なかった。
お題目は説明されることはあるが、それは言葉だけであり、心で実感することは出来ない。

最終話で提示されたテーマが思い返せば全てのエピソードでも
キャラの動きによって描かれていたのだと改めて実感されるのが真の名作であり、
歴代スーパー戦隊シリーズにはそうした作品は多いのですが、
この「ゴーバスターズ」という作品ではそうした感想は結局は持つことは出来ませんでした。

この作品の最終話で示されたテーマはそれなりに意義深いものであり、
ある意味で感動的だと思いました。
また、細部では色々と光るところもあった作品なのでしょう。
しかし私はマニアではないのであまり細部のディテールは見ない主義であり、
1年間トータルで物語の完成度がどうであったかという点で評価する傾向が強いので、
そういう視点ではこの作品は近年では稀に見る失敗作であったと言わざるを得ないでしょう。
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posted by 通りすがりのシンケンブラウン at 01:30 | Comment(8) | 特命戦隊ゴーバスターズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月12日

海賊戦隊ゴーカイジャー妄想物語その12


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次いでジェットマンの5人ですが、ザンギャック艦隊を全滅させてレジェンド大戦が終結した後、その場に現れたアカレッドや「この星の意思」の話を聞き、その内容があまりに想像を絶するものであったので大変驚きました。バイラムとの戦いが終わった後のおよそ19年間、軍人の竜を除いて、香も雷太もアコも完全に一般人として平穏に暮らしてきたので、急に宇宙の平和とか、世界の作り変えなどと言われても突拍子が無さすぎてピンときません。竜にしても地球の平和を守るために戦うことしか考えてこなかった堅物の職業軍人ですので、こんな非現実的な話には面食らってしまい、16年間天国で楽しく暮らしていた凱にとってもこれは思いも寄らない話でした。
だからジェットマンの5人は「この星の意思」の計画に協力すべきかどうかも、ちょっと簡単には判断出来ない状態でした。ただ、宇宙や世界のことはともかく、5人は地球の人々の平和な生活は守りたいと思っていましたから、「この星の意思」の計画ならばザンギャックの再侵略を阻止できるという点は素直に歓迎することは出来ました。
しかし問題は「この星の意思」の計画に協力して「大いなる力」を渡し、そして「この星の意思」の計画が実現した暁にはジェットマンの5人もこの世から消えてしまうということでした。竜たちはそれでも自分達の存在と引き換えに地球の人々の平和な暮らしを守ることが出来るのならば本望だと言いましたが、凱はその考え方には賛成できませんでした。

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ジェットマンは一般人がやむを得ない事情で戦うことになった戦隊であり、もともと地球を守るために命を賭ける義理など無い連中の集まりでした。だから当初は地球や他人のために自分の命を捨てるなど真っ平だと思っていました。軍人の竜だけはそうした覚悟が定まっているかのように見せていましたが、これも実際は見せかけであり、本質は行方不明の彼女に未練タラタラの弱い男でした。しかし、そんな情けない連中のジェットマンですが、命懸けの戦いをせざるを得ない立場なのでした。
自分のやりたいことや欲しいもののために夢中になって、それが命懸けの戦いになるというのならまだ納得は出来る。しかし守る義理の無い他人のために戦って危ない目にあうのは納得出来ないし、そんな戦いで死ぬのは無駄死にのように思えて本当に怖い。だから死にたくない。しかしジェットマンしかバイラムと戦える者がいない以上、死にたくないのに死ぬかもしれない戦いをするしかない。普通の平穏な暮らしをしたいのに平穏に生きることが許されない。自分がヒーローなどではなく弱い一般人だと自覚しているのに、ヒーローのように戦わねばならない。この狂おしい矛盾した状況の中で凱たちは恐怖に震えながら戦うしかありませんでした。
この恐怖から逃れるためにはいっそ自分が特別に強い心を持ったヒーローであると思い込むというのも1つの方法でした。しかし凱たちにはそれは出来ませんでした。仲間たちのどうしようもない弱さを目の当たりにして、どうしても自分の弱さを自覚せざるをえなかったからです。
そこで凱たちはいっそ開き直って自分の弱さを認めました。他人のために犠牲になることを受け入れる心の強さも無い弱い自分達は、それゆえに絶対に死にたくない。死なないためには勝つしかない。だから弱い自分達が力を合わせて戦って、何が何でも勝ち抜いて生き残るしかない。弱い人間の戦い方はそれしかないと開き直った凱たちは仲間の結束を強め、必死で訓練を積んで戦い抜き、最終的にバイラムを倒して自分の命を守り抜き、仲間を守り抜き、そして世界を守り切ったのでした。
そして戦いを終えた時、凱たち5人はそれこそがジェットマンの力だと悟りました。決して世界を守るために自分の身を犠牲にすることを辞さないヒーローのような強さは無いが、やむにやまれぬ戦いに踏み込んだごく普通の弱者が自分の弱さを直視して力を合わせて戦って何が何でも勝ち抜く姿勢、それがジェットマンの力でした。それを教えてくれたのは自分自身の弱さ、そして弱さを見せてくれた仲間達でした。
それら全てに感謝した凱たちは、ジェットマンの仲間はあくまでヒーローとしてではなく一般人として生きていこうと戦いの終わった後にジェットマンの絆のもとに誓い合い別れました。その後、凱は些細なトラブルに巻き込まれて事故死してしまいましたが、そういうあくまで一般人としての死で人生を全うした自分がいかにもジェットマンとして相応しく思えて満足していました。

だから、他の仲間4人にも一般人として生き、一般人として死んでほしいと思っていた凱は、竜たちが自分達の存在と引き換えにして宇宙を救おうとしているのを見て、そんなヒーローらしい最期はジェットマンらしくないと思えたのでした。
ジェットマンならそんな潔く自分を犠牲にせず、弱さを自覚して必死に戦い続けるべきだろうと思った凱でしたが、戦うといっても自分達は「大いなる力」を半分失ってしまって変身して戦うことは出来ない。いや仮に「大いなる力」を取り戻して戦えるようになったとしても、長期的に見て勝ち目が薄いのは確実です。このまま戦い続けても世界も、そして自分達自身も生き長らえることは出来そうにない。そういう状況の中で自分達を犠牲にすれば確実に世界は救うことが出来ると聞けば、竜たちが自己犠牲の道を選ぼうとするのも無理も無い。理屈としては凱もそういう選択も有りだということは分かります。
しかし凱としては世界や宇宙の運命がどうなろうともジェットマンの仲間たちがジェットマンらしくない行動、自己犠牲的な強いヒーローのような行動をとることはどうも許せなかった。それは確かにジェットマンの絆の誓いを守ろうとする凱の意地でありましたが、この状況でその誓いにあくまでこだわるのは凱の我儘と言われても仕方ない。竜たちに「ジェットマンらしく生きろ」などと説教したところで、この状況では竜たちを説得することはおそらく出来ないだろうと思った凱は、こうなれば竜たちを騙してでも自分のジェットマンとしての意地を通してやろうと考えました。

そこで凱はアカレッドがガレオンで旅立ったのを見送った後、世界を救うためなら自分達の「大いなる力」をアカレッドが連れてくる35番目の戦隊に渡してもいいと言う竜たちに向かって、自分もその方針に賛成だと前置きした上で、その35番目の戦隊に会って「大いなる力」を渡す役目は自分にやらせてほしいと言い出したのでした。竜たちは驚いて、死んでいるのにそんなこと出来るのかと凱に尋ねました。それに対して凱はまた今回みたいに一時的に下界に降りてくればいいと言い、むしろ死人だからこの役目に適しているんだと言葉を続けました。
意味が分からなくて首を傾げる竜たちに向かって凱は、その35番目の戦隊の奴らはきっと危険な連中だからだと説明を始めました。凱の言い分は、ザンギャックの支配する宇宙でザンギャックに刃向って戦い続けている連中がいるとすれば、それはかなりトンデモない連中であって、常に争いを呼び込むような連中に違いないというものでした。アカレッドが見込んで連れてくるのだから正義の心は持っているのであろうが、極めて敵の多い連中であるのは間違いない。だからきっと35番目の戦隊の連中は争いを地球にまで持ち込んでくる。
そんな35番目の戦隊に変身して戦う力を失った者が接触するのは危険であり、特にジェットマンのメンバーの場合はずっとごく普通の一般人として生活してきたので変身できない状態で35番目の戦隊に接触するのは特に危険と思われる。その点、死者の霊である自分ならばこれ以上死ぬことはないのだから多少の危険は平気であり、危なくなればすぐに回避することも出来ると凱は言いました。だからジェットマンの5人の中では自分が35番目の戦隊に接触するのが一番適役なのだと主張した凱は、これまでずっと毎日欠かさず墓守をしてもらったお返しをしたいのだと言って竜たちに頭を下げ、きっと35番目の戦隊がジェットマンの志を継ぐに相応しい戦隊であることを見極めて上手くやるから、どうか俺に任せてほしいと頼み込みました。
それを聞いて竜たちは確かに35番目の戦隊に「大いなる力」を渡すためにはまずは35番目の戦隊の志を知らねばならないことに気付き、そのためには彼らに深く接触しなければいけないが、そこに危険が伴うという凱の予想は尤もであるように思いました。そして確かに凱ならばそうした危険の中でも上手くやってくれるであろうとも思えました。とにかく竜たちは凱にこうして頭を下げて頼まれてしまえば、凱がジェットマンを代表して35番目の戦隊と接触することを拒絶するような理由は何も無い。もともと凱のことを仲間として深く信頼しているので、凱が自分達の代表を務めることに何の異論もあろうはずもない。
ただそれでも凱1人に危険な任務を押し付けるわけにはいかないと、竜も同行すると申し出ましたが、凱は竜に万一のことがあったら香が悲しむからダメだと言って頑として1人で行くことを譲らず、竜も結局は凱の熱意に押し切られて、凱1人に任せるという結論となったのでした。

15jet01.JPG凱は一旦天国に戻って、そこから下界の地球にやって来た35番目の戦隊を観察し、適切なタイミングで35番目の戦隊に接触して「大いなる力」を渡すことを試みるということになり、ジェットマンの他の4人は凱を信じて任せるという方針が決定しました。だが凱としてはこうしてとりあえず35番目の戦隊と竜たちが直接接触して安易に「大いなる力」を渡してしまわないようにすることが出来ればまずはOKであって、実はそこから先はどうするのかあまり深く考えていませんでした。
凱としてはジェットマンが宇宙の平和のために安易に自己を犠牲として捧げるような結末は望んでいなかったので35番目の戦隊に「大いなる力」を渡したくはない。だから35番目の戦隊と接触しないのも1つの手でしたが、35番目の戦隊の方からジェットマンを探すようになれば、彼らが竜たちのもとに辿り着くのを阻止するために結局は凱は35番目の戦隊に接触するしかない。
「大いなる力」を渡したくないのに35番目の戦隊とは会わねばならない。きっぱりと「大いなる力」を渡すことを拒絶してもいいのだが、凱とてこのままザンギャックの再侵略になす術なく蹂躙されていくことを望んでいるわけではなく、もし地球に危機が迫るのであれば何か対抗策は必要だと思っており、その最後の切り札が「この星の意思」の言っていた策であることも分かってはいます。その道をきっぱりと捨てることにもちろん躊躇はあります。
結局は凱も迷っているのであり、そもそもザンギャックの再侵略があるのかどうかも現時点では分からないし、とにかく成り行き任せであり、いずれ35番目の戦隊と会う時、その時の状況次第、相手次第で出たとこ勝負しかないと凱はかなり適当に考えていました。ひとまず竜たちと35番目の戦隊との安易な接触さえ封じることが出来れば良い、それだけしかハッキリした凱の方針はありませんでした。

とにかくそういう方針が決まり凱は安堵して、戦いが終わって今後の方針も決まった以上、早く戻らないと女神様に叱られちまうんで、そろそろ自分はあの世に帰らせてもらうと竜たちに告げました。そして、名残惜しそうに見つめる竜たちに向かって、またこれからも墓守を頼むと笑って凱は姿を消し、その場に残された竜たち4人はしばらくしんみりしていましたが、静かに立ち去っていき、再び元の生活に戻り、以前と変わらず交代で毎日欠かさず凱の墓守を続けたのでした。
一方、天国のバーに戻った凱は竜たちをはじめ34戦隊の戦士たちに姿を見せて戦ったことで女神からお小言を頂戴する羽目となりましたが、凱も実際理央やメレの能力のことは想定していなかったので、あれはワザとじゃないと説明して謝り、結局は凱が今後は女神のリクエストによるサックス演奏を断らないという条件で許して貰うこととなりました。その上で女神は、それにしてもよく無事で戻ってきたものだと呆れ顔で凱に言いました。そして、どうやら天国に戻ってくる前の竜たちと凱の会話も聞いていたようで、女神はまた地上に行って危ないことをするつもりなのかと呆れたように凱に問いかけました。
凱は自分は死人だから危険な目にあっても大丈夫であるかのように言っていましたが、実際は死者の霊が下界に降りて肉体を得て、そこで肉体的死に至るようなダメージを受けた場合、霊体に致命的ダメージを及ぼし、完全消滅してしまう恐れがあったのでした。女神はそもそも凱が下界に降りたところで自力で仮初の肉体を得ることも出来ないであろうとタカを括っていたのですが、凱がそれを成し遂げてしまったので驚くと同時に、その状態で戦いに参加すれば極めて危険だと思いハラハラして見守っていました。
その凱がなんとか無事に戦いを終えて勝利を掴んだのを見て女神もようやく安堵していたのですが、その凱が戦う力を失ったというのにまた危険に飛び込もうとしているのを見て、もう呆れるしかありませんでした。その女神の問いかけに凱はニヤニヤ笑いながら、あれはあいつらを危険な目に遭わせないための方便だと答え、また下界に降りる機会があったとしても俺だってもう今回みたいな危険な目に遭うのは真っ平だから心配するには当たらないよと言って、バーカウンターに腰かけて空のロックグラスを手に取って、女神に酒をおねだりするのでした。
女神は相変わらずどうも信用できない男だと思って凱を見つめ、どうしてこんないい加減な男が天国に来ているのだろうかと溜息をついて、カウンターの中に入って凱のキープボトルを取出してから、凱のグラスに氷をつまんで入れ始めたのでした。
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posted by 通りすがりのシンケンブラウン at 21:01 | Comment(0) | 海賊戦隊ゴーカイジャー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月06日

海賊戦隊ゴーカイジャー妄想物語その11


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さてタイムレンジャーの6人は、ザンギャックとの決戦の最終盤に未来組の4人が突然乱入してきて図らずも6人が揃うことになり、戦いの後にようやく11年前に別れ別れになっていた竜也と直人の21世紀組とユウリ達31世紀組がまともな会話を交わして、ごく簡単に互いの近況を報告し、その会話の流れから、どうやらユウリ達の暴走させてしまった豪獣ドリルの乱入のせいで歴史の流れが変わってしまったらしいことが判明しました。そして、そのことを知ってユウリ達が困惑していたところにアカレッドと「この星の意思」が現れ、今回のザンギャックとの戦いの裏事情をスーパー戦隊の戦士たちに向けて説明したのでした。
その話の内容を聞いて、その場に居合わせた巽マトイとマツリ兄妹は急いでゴーゴーファイブの仲間のもとに駆け戻り、タイムレンジャー組の竜也と直人も他の戦隊の戦士たちと同じように「この星の意思」とアカレッドの話に驚きましたが、ユウリ達31世紀組の4人は竜也たちとはまた違った感慨で「この星の意思」とアカレッドの話の内容を意外に思い戸惑いました。
ユウリ達の住む時代である31世紀から見て1000年前の戦いである、この2011年のスーパー戦隊とザンギャック侵略軍との戦いの背景にそんな事情があったなどということはユウリ達には初耳であったからです。ユウリ達は31世紀においても一般人ではない。時間保護局の職員ですから、過去の歴史については専門的な知識を有しています。そのユウリ達が知らないのですから、これは完全に歴史の陰に隠れた真実ということになります。
どうして歴史の表舞台でそのことが記録に残っていないのかというと、おそらくこの「この星の意思」の計画が実現しなかったからだとユウリ達は思いました。2011年のザンギャック軍との戦い以降の数年間の間に宇宙から35番目の戦隊がやって来て「宇宙最大の宝」に34戦隊の「大いなる力」を戻して平和な宇宙を作ったなどという歴史的事実はありません。いや、そもそも「宇宙の作り変え」などという特異な現象が起こったとするなら、歴史の断絶や更新のようなことが起きているはずであるし、さっきの「この星の意思」の話の通りに計画が進んだとするなら、31世紀世界においても34戦隊の存在の記録は抹消されて伝わってはいないはずです。
しかし、ユウリ達の暮らしている31世紀世界において伝わっている歴史においては、34戦隊は2011年にザンギャック侵略軍から地球を守り抜いた英雄となっており、その存在は消えたりはしていない。34戦隊に撃退されたザンギャック帝国は地球再侵略を躊躇しているうちに自壊し、地球は危機を逃れたが、ザンギャック帝国崩壊後の宇宙は混乱に陥り、別に「平和な宇宙」などは実現しなかったはずです。
つまり、2011年の段階で「この星の意思」やアカレッドが35番目の戦隊や「大いなる力」を使って平和な宇宙を実現しようという意思は持っていたようだということはユウリ達は初めて知りましたが、結局その計画は実現することはなく歴史の中に埋もれていたのだと思いました。

だいいち、「大いなる力」などというものがこの21世紀の時代に存在したこと自体を自分達31世紀の人間は知らなかったのだと心の中で呟いたユウリは、ハッと重大なことに気付きました。自分達未来の人間が「大いなる力」のことを知らないのは、この2011年のザンギャックとの戦いの際に「大いなる力」が使用されて放出され宇宙にバラ撒かれることがなかったからだと気付いたのでした。つまり「この星の意思」の計画はその第一歩から躓いていたのです。だから実現することがなかった。でもそれはあくまでユウリ達が知っていた歴史上の出来事です。その歴史はついさっきユウリ達自身が変えてしまった。
元々の歴史では「大いなる力」を使用することなく34戦隊はザンギャック軍を撃退したはずなのに、ユウリ達の引き起こした豪獣ドリルの暴走事件の影響で34戦隊はザンギャック軍との戦いの最終局面で「大いなる力」を放出してしまい、それを待ち構えていた「この星の意思」によって34戦隊の「大いなる力」は宇宙にバラ撒かれてしまった。元々の歴史では第一歩の段階で頓挫していたはずの「この星の意思」の計画は、ユウリ達が歴史を変えたせいで第一歩を踏み出してしまったのです。
「この星の意思」の話を聞いてそのことに気付いたユウリ達は真っ青になって、これは大変なことをしてしまったと焦りました。それは「過去の歴史に影響を与えてはいけない」という時間保護局員としての長年培ってきた職業意識により自然に湧き上がって来た感情でした。もしかしたら自分達のせいで歴史に重大な変化をもたらしてしまったのかもしれない。そういう何とも言えない不安がユウリ達4人を襲いました。

だが、ふと冷静になって考えてみると、このまま歴史が変わって「この星の意思」の計画が実現してしまったとしたら何か不都合があるのだろうかということにユウリ達は思い至りました。34戦隊が消滅してしまうらしいが、そのことはユウリ達自身にとっても確かに重大な問題ではある。だが、それはあくまで個人的問題です。ユウリ達が心配していたのは歴史そのものへの影響の方です。
この21世紀において34戦隊が消えたとしても、その後の地球の歴史にさほど大きな影響があるわけではない。問題はむしろ「この星の意思」の計画が実現することによって「宇宙最大の宝」の力で「平和な宇宙」が実現してしまうということです。元々の歴史ではそんなものは実現していないのですから、これは重大な歴史改変であり、本来は時間保護局としては絶対に許してはいけない重大な過失となります。
しかし、現在ユウリ達は31世紀世界において特殊な任務を遂行中です。それは31世紀世界の宇宙滅亡の危機を回避するために、あえて時間保護局としてのタブーを犯して過去の歴史を改変して、過去の何処かのタイミングで宇宙の平和を実現するということでした。そもそも豪獣ドリルの暴走事件が起こったのも、その計画を遂行する過程で生じた出来事でした。
その31世紀のユウリ達の計画と、この21世紀における「この星の意思」の計画は同じ目的を目指したものなのではないか。ならば、ユウリ達のミスによって歴史が変わり、「この星の意思」の計画が実現して平和な宇宙が実現するならば、それはユウリ達にとって、そして地球や宇宙の今後の運命にとって歓迎すべきことなのかもしれない。そのことに気付いたユウリ達は、これはあるいは以前に2001年の歴史を変えた時と同じように、自分達に課せられた運命の導きによる奇縁であったのかもしれないとも思えました。

だが、実際はそんな都合よくお伽噺みたいに物事は進まないはずだと、ユウリ達は興奮しかけた自分達の気持ちを鎮めました。自分達が歴史を変えてしまったといっても、今回のケースの場合は2001年の時とは違って、完全に未来人である自分達の起こした突発的事故のせいなのであり、この場合は間違いなく「歴史の修正力」が作用して、大筋での歴史の流れは変わらないはずです。
確かに本来は歴史の表舞台に出ることはなかった「大いなる力」は宇宙にバラ撒かれて、それを回収しつつ35番目の戦隊を探すべくアカレッドも旅立ってしまった。だから今後数年間あるいは数十年間の歴史が元々の歴史とは違ったものになる可能性は大いにある。だが、大筋の歴史は変わらないはずです。地球がザンギャックに征服されることもないであろうし、ザンギャックの滅亡も避けられない。そしてザンギャック滅亡後の宇宙に平和がもたらされることもないはずであり、それはつまり、結局は何らかの事情で「この星の意思」の「宇宙最大の宝で平和な宇宙を作る」という計画は挫折するということです。きっとそうなるに違いないとユウリ達は思いました。
だが、それはあくまで今回の出来事の結果予想される事態というだけのことに過ぎない。確かにこれで歴史の流れが大きく変わるということはない。しかしユウリ達は歴史の流れを変えなければいけないのです。過去の歴史の何処をどう変えれば宇宙の平和が実現して31世紀の宇宙の滅亡を回避出来るのか、現状ではユウリ達はまだ試行錯誤の途中です。コンピュータに計算させてはいるものの、いつ解答に辿り着くか分からない。しかしタイムリミットは迫っている。そんな中、今回の事件の中でユウリ達は2011年において「この星の意思」が「宇宙最大の宝」という途轍もない力を使って宇宙を作り変えて平和な宇宙を実現しようとしていたという隠された歴史の真実を知った。
これはユウリ達の知っている歴史では結局は失敗した試みなのですが、上手く歴史の修正力の働かないような方法でユウリ達が介入すれば、この「この星の意思」の計画を成功させて21世紀の段階で宇宙の平和が実現するかもしれない。それが31世紀の宇宙の運命に影響を及ぼすのか、それともあまり関係無いのか、今は分からない。だが31世紀に戻ってその可能性を想定してコンピュータに計算させ直せば、その答えは比較的短期間で出せると思えました。そう考えると、やはりこれは奇縁なのではなかろうかとユウリ達には思えてきて、期待が膨らんできます。
これから間もなく自分達は少し歴史の変わった31世紀に強制的に送還されるであろうが、そこはさほど大きな歴史の流れは変わっておらず、この21世紀と繋がったままの世界と予想できます。そこに戻って、まずは自分達のミスでどのように2011年以降の歴史が変わったのか確認した後、その新たな歴史を踏まえた上で、そこから「この星の意思」の計画が実現した場合、31世紀の世界にどのような影響を及ぼすのかコンピュータに計算させることにしようとユウリ達は思いました。
その結果、「この星の意思」の計画が実現すれば31世紀の世界が救われるという結論が出れば、どのように歴史に介入すれば「この星の意思」の計画が実現するのか、作戦を練ることになる。おそらく現状では「この星の意思」の計画が実現するという方向に歴史が変わっているという可能性は低い。歴史の修正力はそんな簡単に克服できるものではないのです。歴史の修正力を働かせないで歴史を変えるためには、あくまで21世紀の人間の意思で歴史を変えるよう巧妙にユウリ達が介入して仕向けていかないといけない。その具体的な介入方法は新たに変わった2011年以降の歴史の事象を綿密にチェックして見出していくしかない。自分達が31世紀に戻ってやるべきことはそういうことなのだとユウリ達は自覚しました。

「この星の意思」が姿を消し、アカレッドがガレオンに乗って旅立っていくのを見送ると、ユウリ達31世紀組の4人は竜也と直人に向かい、自分達は間もなく31世紀に送還されることになるだろうと伝えました。そして、おそらく自分達の戻る31世紀は少々歴史が変わってはいるが多分この21世紀と繋がっているはずだと言い、場合によってはさっきの「この星の意思」の計画に関連して自分達は再びこの時代にやって来ることになるかもしれないと伝えました。
竜也と直人は「この星の意思」の突拍子も無い話を聞いて、ただただ驚いていましたが、ユウリ達が31世紀に戻るという話を聞いて我に返って、そういえばユウリ達は未来人だったということを思い出しました。それはつまり、ユウリ達はこの「この星の意思」の計画の結末についても知っているということを意味しているのだと竜也も直人も気付いたのでした。言い換えれば自分達が「この星の意思」の言うように消滅することになるのかどうかという運命についてもユウリ達は知っているということになる。
もちろん竜也と直人はその答えをユウリ達に尋ねることは出来ないことは分かっていました。尋ねられてもユウリ達は31世紀の時間保護局員という立場上答えられるわけがない。だが、あえて尋ねなくても竜也と直人にはこの計画の結末が何となく想像はつきました。ユウリ達が目の前に存在するという事実そのものが、この計画が上手くいかないことを暗示していると感じられたのです。
つまり、「この星の意思」の計画通りに進んで「宇宙最大の宝」を使って平和な宇宙を作れば、1年後ぐらいに34戦隊の戦士たちはこの世界から消えるのであり、ならばその時、31世紀世界のユウリ達も消えることになるはずです。ならばユウリ達がこうして31世紀世界からやって来ることが出来るはずがない。しかしユウリ達が31世紀世界からこうしてやって来ているということは、1年後に34戦隊の消滅は起こらないということであり、それは「この星の意思」の計画の失敗を意味している。竜也と直人は何となくそう思えました。ユウリ達の表情を見ていても、何となくそうなのであろうと感じられました。
ユウリ達も勘の鋭い竜也や直人がそういう直感を抱いたことは気付いていました。だが、未来人であるユウリ達と竜也たちの間でその件に関して直接的な言葉を交わし合うことはタブーであることは互いに理解しているので、具体的な言い回しは避けつつ、それでも竜也はユウリに対して不審に思ったことを尋ねました。それは「どうしてまた来る必要があるのか?」ということでした。

ユウリ達は歴史の結果はもう分かっているはず。あえてその件でまたこの時代にやって来るということは、まさか歴史に介入するつもりなのかと竜也は不審に思ったのです。あるいはさっき歴史を変えてしまったかもしれないとユウリ達が言っていたことに何か関係しているのではないかとも思えました。だがユウリはその質問には答えられないのだと言いました。事情を説明するためには31世紀の宇宙の滅亡の危機の話をしなければならないが、21世紀の人間に未来の出来事を教えるわけにはいかない。それによって歴史がまた予期せぬ方向に変わってしまい、そのためにまた余計な歴史の修正力が作用してしまう危険があるからです。
特に竜也にはこれ以上余計な情報は与えるわけにはいかない。浅見竜也はこのままいけばこの先の21世紀世界の歴史において重要な役割を果たす人物となります。つまり竜也の言動は歴史に大きな影響力を及ぼす可能性が高い。そんな人物に未来の出来事に関する余計な情報を与えてしまうと、歴史の流れに大きな変化が生じる危険があるのです。だからこの先もし「この星の意思」の計画の件でユウリ達が21世紀の歴史に介入することになったとしても、万が一の事態を回避するため、竜也との接触は避けた方がいい。
竜也自身、既に自分が現代の社会で大きな影響力を及ぼす地位にあることは自覚しているだろうと思ったユウリは、竜也に向かってそのことを説き、そういう立場にある竜也には特に詳しい事情は説明出来ないのだと言い、もし今後再びこの時代にやって来ることになったとしても自分達は竜也と接触することはないだろうと告げました。そしてユウリ達は直人に向かって、その時は直人に協力してもらうことになるかもしれないと言いました。肉体を失った思念体である直人ならば実社会に対する影響力はほぼ無いので、ある程度は未来についての事情を悟られたとしてもさして歴史に大きな影響は生じないだろうと思えたからです。
だが、そう言われた直人は意外にも協力は出来ないと応えました。驚いてドモンが直人に理由を質すと、直人はユウリ達4人が歴史を変えておおかたさっきの「この星の意思」の計画を実現しようとしているのだろうが自分はあの計画が気に入らないからだと答えました。
そして続けて直人は、人間は明日をより良いものとするために地道に自分の力で進んでいき、その結果未来の運命が変わるものだということを、かつて自分はお前達タイムレンジャーから教えてもらったが、それなのにお前達が34戦隊の戦士たちの明日を犠牲にして魔法みたいな方法で未来を変えようというのならタイムレンジャーらしくないと思うと言いました。ドモンはムッとして直人の胸倉を掴んで、宇宙が滅亡するかどうかの瀬戸際なのだと言いそうになりましたが、なんとか思いとどまり黙り込みます。
そうしているとユウリやドモン達4人の身体の周りがキラキラした光で包まれ始め、31世紀への強制的送還が始まったと悟ったユウリは竜也に向かって、会えて良かったと言って微笑み、幸せになって欲しいと言うと、光に包まれて姿を消しました。同時にドモン、アヤセ、シオンの姿も消え、その場には竜也と直人が残されました。
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posted by 通りすがりのシンケンブラウン at 11:56 | Comment(0) | 海賊戦隊ゴーカイジャー | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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