2011年01月17日

二代目レッドル

二代目レッドル.jpg




















「重甲ビーファイター」の初代レッドル適合者の羽山麗がビーファイターを辞めて南米に去っていったのは22話冒頭のことでしたが、これは麗を演じていた葉月レイナの首の負傷が原因でした。
この負傷は13話あたりの撮影分で生じた事態であり、その後、麗のセリフが全て別の俳優さんの声で吹き替えられているところを見ると、葉月は声の出せない深刻な状態であったようです。
結局その状態のまま葉月は降板して麗は物語から消えたわけですから、番組制作中に回復する見込みも当初から無かったと推測されます。
ならば、さっさと降板させて、もっと早くに二代目レッドルを登場させてもよかったようにも思います。
13話から22話までの間はかなり長い。2ヶ月近くもの間、葉月の声が出ない事が分かっていながら、麗というキャラを無理に延命させたということになります。
何故、そんなことをしたのかというと、理由は1つしかないでしょう。二代目レッドル役の女優を厳選する時間が必要だったからです。

突発的アクシデントでヒロイン役が降板して急遽代役を立てなければいけなかった前例といえば、「バイオマン」のイエローフォーの件が思い出されます。
あの時は初代の小泉ミカ役の矢島由紀が失踪してしまったのでミカというキャラの延命が不可能で、否応なく二代目の矢吹ジュンというキャラを出すしか選択肢が無く、急遽、田中澄子という新人役者をジュン役にしました。
その結果、ジュンというキャラは明らかにミカというキャラよりも格は下で、ミカ役で構想していたことはほとんど出来なくなってしまったのですが、それでもジュンというキャラもそんなに悪くはありませんでした。

あの時の事例を今回のレッドルの件にあてはめてみれば、すぐに麗というキャラを退場させて二代目レッドル適合者のヒロインキャラを登場させれば、麗よりはやや落ちるものの、それなりのヒロインになることは十分可能ということになります。
ならば不自然な吹き替えまでして麗を引っ張るよりは潔くさっさと二代目を登場させればいいようにも思えます。
ところがそのようにはせず、あくまで時間をかけてじっくりと二代目ヒロイン役者を厳選したということは、それだけ二代目ヒロインのキャラに期するものがあったということです。
単なる麗の代わりではなく、麗を超える役割を果たしてくれるキャラでないといけないという強い想いがあったのです。

しかし、それにしても2ヶ月は長い。単に役者を厳選するにしては長過ぎます。
番組の性格上、どっちにしても有名俳優はキャスティング出来ないわけで、新人役者ということになります。その中から厳選するにせよ、そんなに時間がかかるわけではありません。
だから単に役者を厳選しただけではなく、二代目のキャラクターの設定をイチから検討し直すという作業がまずあって、それからそれに合った役者を厳選したのだと思われます。
そして、それは作品自体の路線変更の一環であったのではないかと思われるのです。

麗役の葉月が撮影中に負傷したのは3月末ぐらいのことだと思われます。
この時期というのは、地下鉄サリン事件が起こり、それがオウム真理教の引き起こしたものではないかという疑惑に日本中が揺れ始めていた時期です。
もともと、1月に起こった阪神大震災によって、生活のすぐ身近に大きな危険が潜んでいることを実感していた日本国民は、このオウム事件に接して、生活の身近に自分と変わらない普通の人間による巨大な悪意もまた潜んでいることを実感し、慄いていました。
このように蔓延し始めた新しい風潮に対して、戦隊シリーズの「オーレンジャー」の制作現場では、オーレンジャーの提示している「外部からの巨大な未知の侵略者VS正義の人類」という世界観が陳腐で古臭いものとなりつつあるということは自覚出来ましたが、それに代わって新しい社会の危機意識に対応した物語を紡ぎ出すことは出来ず、立ち往生していましたように思えます。

「重甲ビーファイター」においても、そこで提示されていた世界観は戦隊シリーズとほぼ同じく「外部からの未知の侵略者VS正義の人類」でしたので、それはやはりオウム事件後の当時の世相から見れば、既に陳腐なものになっているという点では同じようなものでした。
しかし、メタルヒーローシリーズの制作現場は、その新しい社会の危機意識に対応することが出来たのです。
それは何故かというと、レスキューポリスシリーズ以降の蓄積が有ったからでしょう。
もともとメタルヒーローシリーズでは、レスキューポリス三部作で「普通の人間がヒーローと戦う敵となり得る」「敵である犯罪者にもそれなりの事情がある」ということを描いており、
続く「ジャンパーソン」でも「人間が究極の悪にもなり得る」「しかし、それにも事情はある」ということを描き、
「ブルースワット」では、「一見平穏な社会に潜む悪意」「人間に憑依し擬態した悪意」を描いてきた。
そうした蓄積が有った上で戦隊シリーズ路線に転換したばかりであったので、オウム事件のような事態に対応した適切な物語を紡ぎ直すことが出来たのだと思います。

19話の脚本が書かれたのは地下鉄サリン事件から1ヶ月ほど経った4月下旬ぐらいだと思われますが、
ここでは主人公の1人である甲斐拓也(ブルービート)の遺伝子から作られたシャドーの変身する闇のビーファイター、ブラックビートが物語に登場し、敵側のレギュラーに加わります。
まぁこういうキャラが登場すること自体は規定方針だったのかもしれませんが、その扱いが非常に重いものとなるのは物語後半の路線変更の結果でしょう。
そして22話にはレッドルの二代目適合者である鷹取舞が登場します。
これも撮影は6月初旬ぐらいだったと考えられ、サリン事件から1ヶ月の4月下旬までに新しい路線が固まっていたとすれば、そこで鷹取舞のキャラも決定し、そこから1ヶ月間、舞役の役者を厳選して5月末までに新人女優の巴千草を選び出していたとすれば間に合います。

bee014.jpgレッドルの二代目適合者の鷹取舞は19歳の女子大生で、ビーファイターの新装備をたまたま拾ったことがきっかけで二代目のレッドル適合者となり、ビーファイターの仲間になりました。
麗と同じく、やはり戦闘経験の無い全くの民間人ですが、舞の場合は他の2人や麗のように学者でもなく、ホントに単なる普通の学生で、
特に頭が良いというわけでもなく、自然界に関する知識が豊富なわけでもありません。
というか、一般常識にも少し欠けたところがあるぐらいで、一見アホの子のようにも見えます。

ただ、舞はとても純粋な性格で、自然を愛する気持ちだけは誰にも負けないのです。
もちろん拓也も大作も麗も自然を愛する気持ちは強いのですが、彼らは学者なので、それが理知的な形で現れるため、やや分かりにくいし、やや抑制されたものになります。
しかし舞は変に知識が無い分、気持ちだけで行動するため、その純粋な自然への愛情はストレートで、見ていて非常に分かりやすく、抑制が無い分、常に全開状態となります。
自然を守るためなら見境ない行動をとります。まぁそういう性格であるのでレッドルの適合者に選ばれました。

麗が自分の幼少時からの辛い経験を頭の中で整理して自然を守る動物学者への道を選び、それを粘り強い努力と才能で実現させてきたのに比べると、
舞の自然への愛はかなり能天気で漠然として、気持ちが前面に出ているといえます。
麗が動物をそっと陰から見守ってあげる知性と抑制に基づいた優しさを秘めているとすれば、
それに対して舞は愛情に突き動かされて迷いなく小動物に駆け寄って抱き締めるというタイプです。
麗の優しさは知性によって抑制されている分、やや分かりにくく、過去の辛い経験もあるため、やや苦悩や葛藤も垣間見えて暗いムードも漂うのですが、
舞は知性で劣る分、非常に能天気で明るくハジケた性格で、誰とでも仲良くなる気さくさを持っています。
ひたむきで純粋で一生懸命で優しく元気で可愛い。まさに戦隊ヒロインっぽいキャラだといえます。
そういう舞のキャラに合う女優ということで巴千草が選ばれたと思われます。

学者である拓也や大作にとっては、麗は同年代で同じ学者仲間でもあり、そのしっかりした真面目な性格もあって、頼れる同僚というイメージでした。
しかし舞の場合は年齢も少し離れており、学者でもないただの学生で、あまり頭が良いともいえず、世間知らずな能天気な、やたら元気な人懐っこい性格であるので、どうも放っておけない出来の悪い、それでいて可愛い妹というイメージとなりました。
舞が何も知らないので2人に色々質問して2人が先生が生徒に教えるようにして教えてあげて、それによって2人の方も改めて発見することもあったり、舞の独特の視点に逆に感心したりとか、麗とチームを組んでいた時よりも、拓也と大作のキャラも動きが大きくなってくるという効果もあり、舞の加入によって作品全体の活気が出て来たといえます。
ただ、舞の加入の意味はそれだけではありません。むしろ、それは副次的産物でしょう。

とにかく舞の純粋さはケタ外れで、どうやったらそんな澄んだピュアな心が形成されるのか、ちょっと謎なくらいだが、他人を疑うということが出来ないぐらいです。
ここまで来ると、もはや欠点と言ってもいいレベルで、要するにバカがつくほどのお人よしで、人間として未熟なだけの天然ボケ、ただの甘ちゃんとも見ることも出来ます。
もちろんそれでは戦士としても未熟であり、致命的ともいえます。
実はこの部分こそが舞というキャラを登場させた真の意義なのです。
舞はなんと登場して間もなくの頃、敵であるジャマール怪人まで信じてしまい、そのピュアな心にほだされて、なんと怪人も更生してしまう。
しかしこれでハッピーエンドになるようでは余りに甘すぎるわけで、結局は怪人は悲惨な結末となるのですが、それでも舞は挫けることなく怪人を信じ続けるのです。

まぁいくら舞が純粋だからといって、舞の説得で更生してしまう怪人も怪人なのですが、これはジャマールという敵組織の複雑な性格にも関係しています。
このジャマールという組織は3つの軍団の寄せ集めで、その上にガオームという首領がいます。
そしてこの3つの軍団それぞれ、もちろん悪には違いないのですが、それぞれ悪に走って戦わざるを得なくなった複雑な事情をかかえており、絶対悪ではないのです。
また首領のガオームは救いようのない外道ですが、その正体は極めて脆弱で卑小な生命体で、自身の弱さを克服するために永遠の生命を得ることが目的だったりして、何となく哀れを誘うヤツでもあります。
ガオームは限りなく絶対悪に近い存在なのですが、もしガオームが絶対悪だというのなら、絶対悪とはなんと惨めで哀れな存在であることかと思えます。
このガオームの真の正体は続編の「ビーファイターカブト」で明かされますが、闇の意思が生み出した子孫ということだそうです。
となると、ガオームは闇の意思によってわざわざ惨めな姿で生み出されたために、永遠の生命を求める戦いとその果ての破壊に向かって進むように踊らされていただけということになります。
そう考えるとガオームもまた3つの軍団と同じように、多少は同情すべき点もあるヤツのようにも思えてきます。
そして、そうなると諸悪の根源は闇の意思ということになるのですが、闇の意思というのは光の意思と対となった存在で、もちろん邪悪そのものの存在で、これこそが絶対悪そのものなのですが、何処か見知らぬ遠い場所からやって来たモノではない。
光と闇は対であり、光の心、正義の心を持った者にとっても、闇は案外身近にあるモノなのです。

まぁこういった敵組織ジャマールの複雑な内面が、それまでそんなにクローズアップはされていなかったのですが、舞の登場によって、舞が怪人を更生させたり、あくまで怪人さえも信じようとしたりする変な行動をとり、それに拓也や大作たちも次第に感化されていくせいで、敵にも命もあれば心もあるということが浮き彫りになってくるのです。
しかし、だからといって「敵も味方もなく仲良く暮らしましょう」というような甘い考えがこの作品のテーマではありません。
どのような事情があれ悪に染まって他の命を奪おうとする以上、ジャマールは倒すしかないのです。
舞の登場によっても、そういう構図には何の変化もありません。
問題は、その倒すべき敵にも命や心があるということを舞や拓也、大作らが認識したことです。
そのように認識した以上、命を愛する彼らは敵そのものを憎むことは出来ない。憎むことの出来ない敵を倒さなければいけない。そういう戦士の宿命を背負うことになるのです。
その哀しい戦士の宿命を乗り越えるためには、戦士として、ヒーローとして戦う真の理由が必要になります。

それは、敵を倒すのではなく、敵の中に巣食う闇の心を倒すということです。敵を憎むのではなく、闇の心を憎むのです。
言い換えれば、敵に勝つのではなく闇の心に打ち勝つことが大事ということになります。
敵もまた自分の中の闇の心に打ち勝てば、倒す必要は無くなります。逆に、闇の心に支配された敵は涙を呑んで倒すしかなくなります。
敵の闇の心を倒して敵を救いたいが、敵が闇に支配されたままならば敵を倒すしかない。そうした悲痛な戦いを乗り越えてこそ、舞は戦士として成長していくのです。
それが人一倍純粋な心を持った戦士である舞の戦士としてのアイデンティティなのであり、拓也や大作もまた同様の成長を遂げていきます。

つまり、敵に勝つのがヒーローのあるべき姿ではなく、この世にはびこる闇の意思に打ち勝つのがヒーローのあるべき姿だというのが、この「ビーファイター」において提示されたテーマなのです。
敵組織ジャマールの首領ガオームが闇の意思によって生み出されたというのが、その象徴のようなものですが、この事実は続編である「ビーファイターカブト」で示されたものであって、今作ではそこまでは言及はされていません。
ただ、今作でもシャドーという存在を通して、光と闇の関係についてはしっかりと示唆はされています。

シャドーというのは、この作品における光のような存在である拓也の細胞から作り出されたクローンで、それでいて邪悪な意思の塊です。
つまり、このビーファイターという作品においては、闇というものは光から生み出され、光と同じ姿をした存在だという思想が提示されているのです。
そして、シャドーは自分のオリジナルである拓也を倒そうとして執拗につけ狙います。
それが最初はガオームにも歓迎され寵愛を受けますが、シャドーはガオームの世界征服や破壊の目的よりも、ただひたすら拓也を自らの手で倒すことのみを優先するようになり、遂にはガオームとも敵対するようになり、
拓也を倒した上で自分が永遠の生命を手に入れようとし、ビーファイターとジャマールとシャドーの三つ巴のような状況となり、これにジャマールの内紛も絡んで複雑怪奇な情勢となります。
物語終盤になると、ジャマールよりもシャドーの方が主敵のような感じになります。
つまり、シャドーという存在の持つテーマの方が、物語当初のジャマールという存在に込めたテーマよりも重要になってきたということです。

物語が始まった時にジャマールという存在に込められていた意味は、単なる「異次元からの侵略者」という程度のものだったと思われます。
ガオームが闇の意思から生まれたなどという設定は後付けでしょう。
何故そういう後付けが必要になったかというと、「闇の意思」というものが物語途中から重要なテーマとして浮上してきたからであり、その原因はオウム真理教事件に対応して新たなテーマを模索した結果でしょう。
その結果、物語に投入された新たな要素が鷹取舞であり、シャドーであったのであり、そして最終的には次作の最後でガオームもまた闇の意思によって生み出されたというまとめ方がされたのです。

では、何故シャドーは執拗に拓也を自らの手で倒すことにこだわったのか。
それは、闇が光というオリジナルから生み出されたコピーに過ぎないということを自覚しているからこそ、そのオリジナルである光を倒して自分が光になり代わってオリジナルになりたいという本能的衝動があるからです。
これが闇が光に対して闘争を仕掛ける根本的理由であり、それをこの作品ではシャドーというキャラクターの行動を通して表現しているのです。

しかし、ここで謎なのが、光の側はこのような展開となることが分かっていながら、何故わざわざ闇というコピーを作り出すのかという点です。
まぁこの物語の中では拓也はジャマールに採取された細胞でクローンを作られるのであって、自らの意思でシャドーを作るわけではないのですが、
それでもシャドーはもともと拓也であるわけですから、シャドーのジャマールの思惑をも超えた自律的意思というのはもともとは拓也の意思だったということにもなります。
つまり、シャドーを作ったのは拓也の意思ではないが、シャドーの拓也への破壊衝動はもともと拓也の意思だったという解釈も可能なのです。
つまり、光は闇の光への攻撃を望んでいるということになります。
それはどうしてなのかというと、光は闇の挑戦を受けて、闇に打ち勝ってこそ、真の意味での光となることが出来るからです。だから闇を作り出し、闇と戦うことを望むのです。
これがこの作品における光と闇の戦いの真実の姿です。

ここにおいて、「この世にはびこる闇の意思に打ち勝つのがヒーローのあるべき姿」というテーマに繋がります。
「この世にはびこる闇の意思」の中には、敵の心にある闇だけではなく、自らの生み出した、自らの中にある闇も含まれているのです。
自らの闇に打ち勝ってこそ、真の戦士であり、真のヒーローだといえます。
終盤になって、シャドーの正体が自分のクローンだと知り、シャドーの闇は自分の闇そのものだと知り、拓也は大きなショックを受けますが、
自らの闇に打ち勝つことこそが戦士の宿命だと悟り、シャドーとの決着をつけるために最後の戦いに赴きます。

これが「重甲ビーファイター」という作品がオウム事件後の世間に蔓延した「身近に潜む悪意への恐怖」という世相に対して提示したテーマであり、新しいヒーロー像です。
悪は何処か遠い知らない場所からやってくるのではなく、自分たちの中に潜んでいる。
自分の中の悪に勝てない者は誰でも悪になり得る。
だから絶対正義のヒーローなんて存在しないし、絶対悪の敵も存在しない。
真の敵は悪の意思、闇の意思そのものであり、自らの中も含めて、この世に潜む闇の意思に打ち勝つ者こそが信ずるに足るヒーローなのです。
そして闇に打ち勝つ原動力となるのが、この作品においては「自然を愛する心、自然や命を守りたいという優しい心」であるという点は、一貫しています。
この闇に打ち勝つ原動力が何であるのかについては、これは作品によって色々と変わってくるのでしょうが、
基本的に「何かを守りたいと思う心」だというのは、この後、スタンダードとなる傾向となります。
むしろ、その心があるからこそ闇に打ち勝つことが出来るのだというロジックとなっていきます。

このように「ビーファイター」がオウム事件を受けて新しいヒーロー像をいち早く提示出来たのは、メタルヒーローシリーズ、特にレスキューポリスシリーズ以降のリアル路線の蓄積があったからこそであると思われますが、
結果、「ビーファイター」は後半は大いに盛り上がり、視聴率も玩具売上も同時期の「オーレンジャー」を完全に圧倒する人気となりました。
「ビーファイター」が提示した世界観が必ずしも正解だとは言いませんが、少なくともこの作品は制作サイドや出演者が確信を持ったテーマを出すことは出来たわけで、
それが出来なかった「オーレンジャー」のとの差がつくのは当然でした。そういう部分は視聴者の子供は敏感に感じ取るものなのです。
そして、翌年には同じ世界観の正式な続編である「ビーファイターカブト」が作られることになったのでした。
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posted by 通りすがりのシンケンブラウン at 21:11 | Comment(0) | 戦隊ヒロイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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