2011年01月23日

メガイエロー

メガイエロー.jpg





















1995年の阪神大震災やオウム真理教事件の影響で、これ以降、夕方17時台というのは民放各局はすっかりニュースの時間帯となってしまい、テレビ朝日系で金曜日の17時半から放送していたスーパー戦隊シリーズは以前のように視聴率を稼げなくなってしまいました。
1995年度の「オーレンジャー」、1996年度の「カーレンジャー」は確かに内容的にもかなり問題点は有りましたが、仮に内容が申し分ないものであったとしてもこの時間帯では大して視聴率は稼げなかったでしょう。放送枠の引っ越しは避けられない流れだったといえます。
ただ玩具は売れていたので放送枠の引っ越しをバンダイが嫌がり、なかなか引っ越し交渉は難航していたのですが、
1996年にバンダイがパワーレンジャーの失敗やセガとの提携失敗騒動などで企業体力が弱体化して、この引っ越し交渉でテレビ朝日側が主導権を握るようになり、
遂に1997年の4月から日曜日の朝7時半からの放送枠に引っ越すことになったのでした。

何故、この時間帯になったのかというと、テレビ朝日系の日曜朝8時枠に既にメタルヒーローシリーズが存在しており、
1995年度から内容的にはほぼ戦隊シリーズと同一といっていい第二戦隊シリーズともいえるビーファイターシリーズを放送して好評を得ていたからです。
つまり、この日曜朝の時間帯には戦隊ドラマの需要が確実に存在していたのです。
他の時間帯に移動するよりも、最もハズレの無い時間帯であったといえます。
なお、戦隊シリーズは通常の番組とは開始時期がズレており、2月スタートなのですが、放送枠の変更は他の番組の開始時期に合わせなければいけないので、戦隊の方は8話の段階での枠変更ということになります。

テレビ朝日としては、このように日曜朝の男児向けドラマに需要のある時間帯にスーパー戦隊シリーズとメタルヒーローシリーズをまとめてしまうのが効率的で良かったのでしょう。
しかし制作会社の東映としては、同じような毛色の戦隊ドラマが2つ続くというのは無駄に思えました。
そこで、戦隊ドラマは1枠の方にまとめて、もう1枠の方はスーパー戦隊シリーズでここ数年顕著になっていた不思議コメディーシリーズから引き継いだコミカル路線を発揮出来る番組としたのです。
つまり、コミカルな路線に陥ってしまってヒーロードラマとしての方向性を見失っていた「オーレンジャー」「カーレンジャー」の系譜から引き継いだ戦隊フォーマットを、
正統派ヒーロードラマを実現しながらも戦隊フォーマットが不完全であった「ビーファイター」「ビーファイターカブト」の系譜に合体させて、
スーパー戦隊シリーズのフォーマットでビーファイターシリーズの作品コンセプトを実現することにしたのです。
そして、これを朝7時半からのスーパー戦隊シリーズの枠でやることにしました。

一方で、「カーレンジャー」で遂には番組全体を覆い尽くしたコメディー要素は、朝8時からのメタルヒーローシリーズの枠、すなわち「ビーファイターカブト」の後番組としてやることにしました。
これはつまり、不思議コメディーシリーズの再来のようなもので、「ビーファイターカブト」の後番組は、一応は後番組ということで似たような名前の「ビーロボカブタック」となりましたが、その内容はコミカルなロボットがご町内で騒動を巻き起こすコメディーでした。
この路線で1997年度から1998年度までの2年間、「ビーロボカブタック」と「テツワン探偵ロボタック」が作られ、この2作品を称して「コミカルチェンジロボシリーズ」ともいいます。
そして1998年の石ノ森章太郎の逝去を受けて追悼企画として、1999年にこの枠の後番組として「がんばれ!!ロボコン」のリメイク作品「燃えろ!!ロボコン」が制作され、
次いで追悼企画第二弾として、その後番組として「仮面ライダークウガ」が制作され、その後、この日曜朝8時台前半枠は平成仮面ライダーシリーズが放送されることとなったのです。

1997年度作品に話を戻します。
朝7時半開始枠に移動することになったスーパー戦隊シリーズでは、シリーズで引き継いだフォーマットは使いつつ、そのコンセプトは正統派ヒーロー路線への回帰であり、
「カーレンジャー」よりも、むしろ隣の枠の「ビーファイター」「ビーファイターカブト」から引き継いだものの方が多かったです。
普通はスーパー戦隊シリーズにおいては、ある作品で目指していたものが成功しなかったからといって、それと同じようなモチーフを使って次の年にリベンジをするような真似はタブーとなっていましたが、
一応は形式上は「ビーファイターカブト」はスーパー戦隊シリーズから見れば違うシリーズの全く無関係の作品ですから、それと同じようなモチーフを使うことがタブー視されることはなく、
「カーレンジャー」の後番組として1997年度に制作された「電磁戦隊メガレンジャー」は、実質的には「ビーファイターカブト」の雪辱戦のような作品となりました。

「メガレンジャー」という作品の一見して分かる2つの大きな特徴は、作中に出て来るヒーローチームであるメガレンジャーが地球規模の最先端科学組織の支援を受けた徹底的にデジタル的、電脳的要素が強調された戦隊であることと、
そのメンバーである5人組がごく普通の高校生であり、彼らの日常の学園生活が詳細に描写されていることです。
この「電脳戦隊」と「高校生戦隊」は「ビーファイターカブト」において追求された2つの新しい要素でもあり、
「メガレンジャー」では、それらが更に徹底し拡大されているように見えます。

ビーファイターカブトにおいては戦士たちは地球規模の環境保護組織のコンピュータシステムによる支援を受けていたが、
メガレンジャーにおいては戦士たちは世界科学者連邦(I.N.E.T.)という、宇宙ステーションや月面基地まで持つ更に巨大な組織のコンピュータ・システムの支援を受けます。
また、ビーファイターカブトにおいては戦闘の現場においては電脳的要素は変身時や武器使用時のインプットカードシステムおよび情報支援や解析に集約されていましたが、
メガレンジャーにおいては、メガレンジャーという戦士の存在そのものが全て電脳的要素でよって構成されていると言っても過言ではないぐらいで、
ビーファイターカブトのように昆虫の精の力によって選ばれ、その力を得て戦うというような、電脳的要素以外の要素の入り込む余地はありません。

メガレンジャーにおいても敵の情報収集・解析や通信、ホログラム機能など、個々の戦士の特殊能力として電脳的要素は有効に使用されていますが、
戦闘そのものはむしろ目立って電脳的なツールは使用していないように見えます。
しかし実際は攻撃や防御などの戦闘の無数の動作が全て電脳的にプログラムされたものであり、100%電脳制御された戦士がメガレンジャーの本質なのです。
これが、変身者個人の能力に依存する部分の大きいビーファイターカブトとの大きな違いです。
言わば格闘ゲームと類似したシステムであり、一定のコマンドを選択して入力することで複雑な戦闘パターンが自動的に具現化するシステムです。
おそらく変身者の意思を読み取るシステムが組み込まれており、それによって変身者が望む行動(例えば打撃や回避など)に見合った格闘動作を選択し自動的に発動することが出来るのでしょう。
この原理で武器の選択なども出来るのですが、もっと基本的なジャンプや体重移動のレベルから全てが電脳制御された自動戦闘システムがメガレンジャーなのだといえます。
「格闘ゲームの超バーチャル・リアリティー」ともいえるシステムです。
このようなメガレンジャーにおける格闘ゲームの要素は、ビーファイターカブトにおける戦隊ヒロインの鮎川蘭がゲーマーであったことを更に発展させたものでしょう。

また、高校生が戦隊メンバーという点も、ビーファイターカブトでは主人公の鳥羽甲平が高校生で、その学園生活を描写することが作品の特色になっていたが、
メガレンジャーにおいては戦隊メンバー5人全員が同じ学校に通う高校生で、その日常生活も全編を通して緻密に描写されていました。
ビーファイターカブトにおいては後半は学園生活の描写は減ったのですが、メガレンジャーではこの方針は最終回まで変わらず堅持されました。

また、メガレンジャーにおいてはビーファイターカブトの前作の重甲ビーファイターとの共通要素もあり、
それは敵組織が異次元からの侵略者集団である点で、しかもその敵がビーファイターでは妙に人間臭かったのですが、
このメガレンジャーではメインとなる敵が人間そのものであるという点で、ビーファイターよりも更にテーマ性が浮き彫りになっています。
すなわち、正義側も悪の側も共に人間であることによって、敵も本質的な悪だったわけではなく、闇に心を呑まれてしまった弱さこそが真の敵であったということが際立ち、
心に光を持つか闇を持つかによってヒーローになるか悪として滅びるかの道が分かれるというテーマがより浮き彫りになります。
やはりビーファイターと同じく光と闇の戦いがこの作品のテーマなのであり、そうした観点でヒーローとは何なのかを追求することがこの作品のテーマなのです。
その試みに成功してこそ、ここ数作品、ヒーロードラマとしての在り方を見失っていたスーパー戦隊シリーズの再生に繋がるのでした。

また、細かい点ではありますが、ビーファイターカブトとの共通点としてこのメガレンジャーにおいて作劇上の非常に重要な要素になってくるのが、変身アイテムの特殊な仕様です。
ビーファイターカブトの変身アイテムであるコマンドボイサーは適合者の音声認証をしないと作動しないようになっており、一旦選んだ適合者以外は絶対に使用出来ないシステムになっていました。
それがメガレンジャーの変身アイテムであるデジタイザーでは更に徹底されており、最初にデジタイザーを用いて変身した者の遺伝子情報を記憶してその人間以外の使用が出来ないシステムになっています。
もちろんその上に音声認証によるセキュリティも施されており、これらのセキュリティシステムの副作用が劇中で効果的に使われるのがメガレンジャーの特徴です。

このようにメガレンジャーという作品においてはビーファイターシリーズとの共通点は非常に多いのですが、
メガレンジャーという作品の凄い点は、ビーファイターシリーズではそれぞれバラバラに存在していたこれらの要素が、メガレンジャーにおいては全てこの作品で描きたいテーマに向けて全て密接に繋がっているという点です。
シリーズの再起を賭けて、非常に緻密によく作られた作品だといえます。

ネジレ次元という異次元からの侵攻の計画を察知した世界科学者連邦(I.N.E.T.)の立案した地球防衛プロジェクトの中心となって戦う5人の戦士メガレンジャー、
それは格闘ゲームを発展させた自動戦闘システムであったため、その適性者の選抜試験が各地のゲームセンターに設置された「メガレンジャー」という格闘ゲームに偽装されて、ゲーム参加者には事情は知らされずモニターされて行われていました。
これでスムーズに適性者が選び出されていればビーファイターカブトと同じような物語になっていたことでしょう。
ところが、諸星学園高校の3年で腕利きのゲーマーで学校では劣等生の伊達健太はこのゲームで勝利を重ねたためI.N.E.T.の所有するデジタルセンターに連れていかれて
面接を受けさせられたのですが、あまりにだらしない性格であったため落選します。
いくらゲームの腕が良くても戦士として戦う適性の無い人間と判断されたのです。
また、その時たまたま健太の同級生で同じデジタル研究会の仲間(健太は幽霊部員)である4人組も施設見学のためにデジタルセンターを訪れてましたが閉館になっていたため、
勝手にセキュリティを突破して忍び込んだところを見つかって叱られていました。

そこにネジレ次元からの侵略者ネジレジアの軍団が突然出現します。
ネジレジアもI.N.E.Tの計画を察知し、事前に潰そうとして先手を打ってきたのです。
不意をつかれて全滅の危機に陥った時、計画の責任者の久保田博士はその場を乗り切るために、健太のゲームの腕前と、4人の同級生のセキュリティを突破したセンスに賭けて、
代用品の無い5つのデジタイザーを渡し、メガレンジャーに変身して戦うよう頼みます。
5人は事情が全く呑み込めないまま、好奇心から変身し、自動戦闘システムを使いこなしてなんとかネジレジアを撃退します。
しかし、デジタイザーは最初に使用した人間以外は使えなくなるので、
こうしてネジレジアの侵攻が始まってしまった以上、彼ら5人がメガレンンジャーとなってネジレジアを倒すまで戦うしかなくなってしまいました。
しかし彼らはごく普通の高校三年生の若者たちであり、それは過酷な二重生活が始まるということでもありました。
久保田博士も彼ら5人を巻き込んでしまったことに罪悪感を感じており、彼らの日常生活は出来るだけ壊したくないと思っており、
またこの事態を彼らの家族や学校関係者に相談しようにも、神出鬼没のネジレジアの実力が把握出来ない中で迂闊に動いて彼ら5人がメガレンジャーだということがバレてしまうと、
彼ら自身や彼らの家族友人たちに危害が及ぶ恐れもあり、結局、彼らは誰にも内緒で日常生活を送りながらメガレンジャーとして戦い続けるしかなくなってしまったのでした。

これが物語の発端ですが、この導入部の設定があまりに巧みなため、
ごく普通の高校生が日常生活を送りながら戦隊ヒーローとして異次元からの侵略者と戦い続けるという、本来はかなり不自然な設定が「妖精」とか「昆虫の精」とかいう不自然な要素を絡めずにかなり自然に受け入れられるようになっています。
まぁ細かいツッコミ所はありますが、とにかくここで重要なのは、
少なくとも「現実には起こりそうな自然な流れの話」と印象づけることです。
ここの部分があまりウソっぽくなってしまうと、彼らがごく普通の高校生に見えなくなってしまうのです。

どうして彼らがごく普通の高校生に見えないといけないのかというと、もし彼らが普通の高校生に見えず、何らかの特別に選ばれた存在のように見えてしまうと、
この物語で描く最も重要で、なおかつ従来の戦隊シリーズではあえて描かれていなかった描写が、不快な印象を持たれてしまうからです。
それはどういう描写かというと、彼ら5人の「弱さ」を強調する描写です。
このメガレンジャーという物語の最重要事項は、彼ら5人の弱さを徹底的に描くことだったのです。
そして、それは一度ヒーローのあるべき姿を見失ったスーパー戦隊シリーズが、もう一度徹底的にヒーローというものを見つめ直すためには必要な行程であったといえます。

かつては冷戦時代には悪い侵略者というものは自分達とは全く関係無い遠い場所からやってくるものであり、議論の余地無く絶対悪でありました。
というより、議論しようにも何の判断材料も無いぐらい無縁で遠い存在だったので、議論する必要性自体がありませんでした。とにかく絶対悪であった。
だから、それと戦う正義の味方は議論の余地無く絶対正義でした。
だから、どうして正義のヒーローが勝つのか?などという疑問を持つこと自体が無意味でした。
昔の戦隊シリーズ作品もだいたいみんなそんな感じです。
物語がいくら複雑化しても、正義が悪に勝つ理由などが問われることなどありませんでした。
正義は正義である以上、理由など無く勝つのです。
そうした大前提が有って、その上にストーリーが乗っかっていました。

ところが、冷戦終了時期ぐらいからスーパー戦隊シリーズはマンネリ化してきます。
しかしマンネリといえばずっと前からマンネリでした。
同じパターンが繰り返されていたのが急に相手にされなくなったのは、それがこの時期に時代遅れになったからです。
つまり冷戦が終わって絶対悪が現実世界で消えたので正義も絶対ではなくなり、正義が悪に勝つ理由が求められるようになったのです。

この局面においてスーパー戦隊シリーズは非現実性の強い世界、すなわちファンタジー世界に絶対悪を作りあげることによって「絶対正義VS絶対悪」という構図を維持しましたが、
ファンタジー世界もまた一旦作られれば一種の仮想現実化していくのであって、現実と繋がっていき浸食されていきます。
そこにおける正義は何時までも絶対正義であり続けることは出来ません。
その現実の浸食から逃れるには、更なるファンタジーの深みへと逃避していくしかなく、それを繰り返していくうちにコメディー化が進み、
ヒーロードラマの体裁も維持出来ないほどになってしまったのです。
これでスーパー戦隊シリーズも観念して、この「メガレンジャー」から現実に向き合うことになりました。
スーパー戦隊シリーズがファンタジー世界へ逃避していた間に現実に向かい合っていたメタルヒーローシリーズ、特にビーファイターシリーズの遺産を受け継いでです。

現実には絶対正義も絶対悪も存在しない以上、必ずしも正義が勝つとは限らない。
しかしヒーロードラマにおいては正義が勝つという結果を描くしか選択肢は有りません。
そうなると、「どうして正義のヒーローは悪い敵に勝つことが出来るのか」についての納得のいく理由というものが必要になります。
いや、実際の視聴者である子供たちはそこまでの理屈は求めていないのです。
ただ、作っている側や演じている側がそのあたりの納得がいっていないと、説得力のある作品が生まれないのです。
冷戦終了時期にシリーズが行き詰ったのは、まさにそうしたメカニズムによるものだったと思われます。
だから冷戦終了後、ヒーロードラマの制作サイドは自分たちの納得のいく「正義が悪に勝つ理由」を作品を通じて追求しなければならなくなったのでした。
スーパー戦隊シリーズは「カーレンジャー」までその努力を怠っていたのですが、例えばセーラームーンやメタルヒーローシリーズではその作業は行われていたのです。

「正義が悪に勝つ理由」は実際は何でもいいのです。
そこに正解や真理があるわけではない。作品ごとにそれは違っていてもいい。
というより、その違いこそが作品の個性ですから、むしろ違っていた方が良いともいえます。
ただ、それがどのようなものであれ、正義が悪に勝つドラマを作る以上は、正義が悪に勝つ理由は示さねばならず、それもただ単に言葉で示すだけではなく、それを裏づける具体的な描写を全編通して繰り返していかねばならないのです。

ビーファイターで示され描写された「正義が悪に勝つ理由」は、
「正義のヒーローは闇の意思に打ち勝つ心の強さを持っているのだから、闇に屈して悪に走った敵に負けるはずがない」というものでした。
そして、闇に屈する心とは弱い心であるのだから、闇に打ち勝つということは自分の弱さに打ち勝つということに他ならない。
つまり自分の弱さを知り、それを克服出来る者こそが闇に打ち勝つヒーローの資格を持ち得るという理屈も成立する。

弱さを強く自覚する者こそが悪に打ち勝つ正義のヒーローとなる資格を有する。
これを主人公たちを普通のか弱い女学生とすることで見事に表現したのがセーラームーンであり、同様のテーマを表現しようとしてイマイチ成功しなかったのがビーファイターカブトでした。
そのビーファイターカブトの後を受け継ぐ形で制作されることになったメガレンジャーでは、その雪辱戦として同様のテーマに挑むことになったのです。
それはセーラームーンを目指すということでありますが、
ただセーラームーンにおいても、厳密には主人公たちは前世から繋がった宿命の戦士であり、そのことを自覚したことによって、多少のヒーローとしての資質を持っているのですが、
メガレンジャーの場合はそうしたヒーローの資質は一切持たない究極の弱いヒーローを描くことで、ある意味ではセーラームーンを超えようとしたのだといえます。

scan013-2.jpg例えば、このメガレンジャーの2人の戦隊ヒロインのうちの1人、メガイエローに変身する城ヶ崎千里は、そもそもメガレンジャーになる資格など全く持っていませんでした。
I.N.E.T.がゲームセンターの格闘ゲームに偽装して実施していた適性試験を、千里は一度も受けていません。
この適性試験をたまたま受けていたのは5人の中では健太だけであり、健太はゲームのセンスは合格点でしたがヒーローとして戦える性格ではないとして面接で落ちています。
それでも試験を受けているだけ健太はマシな方で、千里たち4人は適性試験そのものを受けていませんし、面接も受けていません。
即興のアイデアでデジタルセンターのセキュリティを突破したセンスを見込まれて、緊急避難的にメガイエローに変身させられただけです。
あの時はそうしなければ、おそらく千里も含む全員がネジレジアに殺されていたので、その選択は間違いではありませんでした。

ただ問題はメガイエロー用の唯一のデジタイザーが一度千里が使ったことによって千里以外には使用出来なくなってしまったことで、千里がずっとメガイエローとして戦わざるを得なくなってしまったことです。
しかし千里にそんな心の準備などありません。
ありきたりのヒーロードラマならば、ここで割り切って戦いの世界に没入していくのでしょうけど、メガレンジャーの場合はこの辺りは妙にリアルに描かれています。

もともと久保田博士は正式な適性者が見つかれば本人の意思をじっくり確認した後、戦いが終わるまではその適性者の身元を完全にI.N.E.T.で引き受けることを前提にして、その者の実社会における痕跡を消去して、戦いがその適性者の残された身内に全く迷惑をかけないよう配慮するつもりだったのであろうと思われ、そうした境遇に身を置くことを了承する者のみを戦士とする方針だったのでしょう。
思うに、ゲームのセンスというのはそんなに重要な資質ではなく、最低限の資質を持った者を面接試験に向けて絞り込むための一次試験のようなもので、
合格者は健太以外にもかなり多数存在したのではないかと思います。
あるいは千里たちも受けていれば合格したのかもしれません。
そうなると大事なのはむしろその後の面接試験の方で、ここで戦士としての覚悟を問われるわけです。
これに健太は落ちたわけで、千里らもこれを受けていれば落ちたはずです。
千里たちは現在の普通の高校生活を捨てる覚悟など全く無かったからです。

久保田博士たちもそういう者に戦士になることを強いるつもりなど毛頭ありませんでした。だから少し健太と話をしただけで簡単に落選を決めたのです。
ところがネジレジアの奇襲という突発的事態のせいで、全く戦士としての覚悟を持たない千里や健太たちがメガレンジャーとなってしまったのです。
久保田博士も5人を無理に普通の生活を捨てさせることは出来ず、仕方なく、日常生活を送りながら戦う高校生ヒーロー5人が誕生したのです。

千里は諸星学園高校の3年生で、健太、耕一郎、瞬、みくの4人とは同じクラスで同じデジタル研究会の仲間でもあります。
デジ研の部長は堅物の耕一郎で、千里は副部長です。デジ研は健太が幽霊部員で、みくは瞬に憧れて来ているオマケ部員で、まともに活動しているのは耕一郎と千里と瞬の3人です。
ただ本当にデジタル関係で才能があるのは瞬だけで、耕一郎と千里は研究会のまとめ役として動くことが多い。
千里の特技は写真で、素人としてはかなりの腕前で、カメラマンを目指しているのだが、すぐにプロになれるという自信も無く、とりあえず大学進学を目指して受験勉強に取り組もうというところでした。

千里の学校の成績は学年で常にトップクラスですが、ごく普通のレベルの高校でのトップクラスであり、もともとそれなりに頭が良い上に、真面目な性格でちゃんと勉強をするので自然と成績が上位になるという感じで、別に特別な天才というわけでもありません。
スポーツも全般的に得意ですが、これも天才的才能があるわけでもなく、単にセンスが良いというレベルです。
つまり、勉強もスポーツもクラブ活動もソツなくこます出来の良い子で、どこの学校でも何人かは必ずいる、ごく普通の明るく元気で真面目で、クラブのみんなの世話を焼くのが好きなお姉さん的性格の女子高生なのです。
確かに優秀な生徒ではあるのですが、決して突出したスター的存在ではありません。可愛い子ではありますが、学園のマドンナ的存在ではありません。
そこらへんを意識したキャスティングなのか、千里を演じている田中恵里も可愛い女優なんですが、決して華のあるアイドルタイプではありません。
そこらへんはデジ研会長で学級委員の耕一郎や、成績トップのモテ男の瞬にしても同じことで、ましてや落ちこぼれの健太やみくは言わずもがなです。
生徒たちの中に埋没した存在でしかありません。

そういう点、同じ高校生戦隊といっても運動部のエース揃いだったターボレンジャーや、スポーツ万能で運動部に引っ張りだこだったビーファイターカブトの鳥羽甲平などとは根本的に違います。
ターボレンジャーの5人や甲平の場合は、彼らはもともと学園のスター的存在で、目立っていたゆえに、元来ヒーロー的な気質を持っていました。
だから戦隊の適性者に選ばれ、その運命を自ら受け入れる覚悟を持っていました。
彼らはおそらく、何となく自分の人生には、変身ヒーローはさすがに予想外としても、そういう他人とは違う機会が巡ってくるのだという意識は有ったのでしょう。
だから、いざそういう申し出を受けた時、比較的すんなりと決断することが出来たのです。

しかしこのメガレンジャーの5人の場合は、平和で平凡な日常生活を捨てるなど思いもよらないことで、
博士に言われるまま好奇心でデジタイザーを操作してしまわなければ、決して戦おうなどとも思わなかったでしょう。
しかし緊急避難的にやむを得なかったとはいえ、その好奇心の代償としてずっと戦うことになってしまいました。
それでも彼ら5人は日常生活を捨てるという発想にはなりません。自分はヒーローになってしまったのだという腹の据わった覚悟は全く無いのです。
まぁそういう覚悟をいきなり固める方がむしろ実際は異常で、この5人の反応の方がリアルでしょう。
そういうわけで、日常の学園生活とヒーローとしての生活の二重生活が始まります。

この「戦士としての覚悟が無い」というのは、ヒーローとして最大の弱点と言ってもいいでしょう。
つまり、この一点だけでもメガレンンジャーはかなり弱いヒーローだと言えます。
そして、それゆえにこそ、その弱さを克服していくことによってメガレンジャーこそが真のヒーローたり得る存在なのだとも言えます。
特に、5人の中では特に真面目な耕一郎と千里の2人は、その真面目で賢い性格ゆえに、自分の弱さを早いうちから自覚し、それを克服していこうという努力を自発的に始めます。
メガレンジャー5人の中に真面目な性格のこの2人を配したのは、
初期のメガレンジャーをヒーローチームとして曲がりなりにも機能させるためには欠かすことの出来ない人材だったからだといえます。
千里というヒロインはメガレンンジャーにおいてそうした役割を担っているのです。
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posted by 通りすがりのシンケンブラウン at 14:12 | Comment(0) | 戦隊ヒロイン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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