2013年02月14日

特命戦隊ゴーバスターズ完結

スーパー戦隊シリーズ第36作「特命戦隊ゴーバスターズ」が
先日、最終話を迎えてその物語を完結しました。
終わってみて、この物語がどういう物語であったのか腑に落ちました。
それは極めて明確でシンプルでした。
おそらく最終話を観た人のほとんどは理解したことでしょうが、
この物語は生者と死者の物語でありました。
最後にヒロムがエンターに言い放った
「人間は不完全だから繋がることや想いを託すことが出来る」というセリフに
この作品のテーマが凝縮されているのでしょう。

このヒロムの言う「不完全」に対比されるエンターの「完全」とは具体的にどういうものなのか、
このあたりは割と不明確なのですが、
データの塊であるがゆえに簡単にコピー&ペーストが可能であるかのように、
何の努力も無く他人の能力や特性をコピーして
自己の能力を無限に拡大させていくことが可能であるという点がまずは挙げられます。
最終盤のバトルにおいてエンターは
ヒロム、リュウジ、ヨーコの能力を容易くコピーして攻撃を繰り出してきており、
そのあたりの「完全性」はアピールはされています。

ただ、エンターのコピーしたヒロム達の能力自体が
エンター自身が「不完全」と蔑む人間の能力に他ならないのであり、
実際ヒロム達は無敵の能力を誇っているわけではない。
だから、不完全な人間の能力をいくら付加していったところで完全に到達することはないわけです。
まぁエンターが目指していたのは何万人もの人間との融合、
つまり何万人もの人間の能力の獲得ですから、
そこまでいけば「完全」に近い存在になるのかもしれない。
ただ、それを阻止すべくゴーバスターズが戦いを挑んでくるわけで、
現時点ではエンターはヒロムの身近な人間たちの能力しかコピー出来ていない
不完全体であるのですから、少なくともこの最終話の段階の劇中では
エンターの「完全性」として、この無限に能力を拡大する恐怖は未来予想図でしかなく、
まだ現実に存在する脅威としては描写されていません。
まぁ簡単に言えば、戦って倒すことは可能なのです。

実際、エンターは決して戦闘において
歴代スーパー戦隊シリーズ作品のラスボスのように圧倒的に強いわけではなく、
年明け以降のクライマックス展開の中でも何度も倒されています。
その中にはわざと倒されている場合も多いのですが、
それでもその身が滅して倒されているのもまた事実であり、
歴代ラスボスに比べてエンターは明らかに脆弱な存在といえます。

最終話の1つ前の49話においては
遂にゴーバスターズの必殺技の波状攻撃を喰らっても倒されないまでになり、
エンターがより完全体に近づいたことは明示されました。
ただ、それでも結局最後までゴーバスターズの攻撃を全く寄せ付けず圧倒するというほどの
歴代ラスボス級の超越的な強さを獲得する段階までは到達できませんでした。
おそらく手をこまねいて放置していればそこまで到達したのだろうと思います。
つまりエンターは歴代ラスボス級の強さに進化途上の存在なのであり、
進化途上で完全に倒されてしまったのだと思われます。

そう考えると、やはりこの「ゴーバスターズ」という作品で真のラスボスといえたのは
クリスマス決戦で倒されたメサイアだったといえます。
あのメサイアにしても中盤の亜空間篇では全く不完全な状態で一旦倒され、
その後バックアップデータで再生して進化して遂にクリスマスに現実空間で暴れ出したが、
それでもまだ完全体に到達前の段階で
ゴーバスターズの総力を結集した攻撃で倒されてしまいました。
が、あの段階のメサイアの方が今回の最終話で倒されたエンターよりも、
より完全体に近づいていたのは明白です。

だからやはりこの作品で歴代ラスボスに比類し得るキャラを1つ選べと言われたら、
やはりクリスマス決戦篇のメサイアを挙げるしかなく、
年明け以降のエンターはヴァグラスの残党の幹部キャラが新たなラスボスに進化しようとして
途中で倒されたということになり、
なんだかこれだけだと来年の「キョウリュウジャーVSゴーバスターズ」あたりでやっても
良さそうな程度の話にも見えます。

だが実際は年明け以降の展開はそんな無内容なものではなかった。
いや当初は残党狩りのオマケ感をかなり感じていたのですが、
エンターのバックアップデータがヒロムの中にあると示されて以降は、
ちゃんとクライマックス篇として盛り上がってきました。
クリスマス篇でメサイアを倒して、年明け最初のエピソードはギャグ回で、
その次の46話でエスケイプが復活再登場しました。

そういえばエスケイプというキャラも彼女の欲する「いいもの」というのが漠然としすぎていて、
結局何だかよく分からないままクリスマス篇で倒されました。
おそらく欲するものが漠然としていることが
彼女自身のデータの塊に過ぎない空虚さの象徴なのであろうとは思います。
エンターが自身がデータの塊であることを肯定的に捉えるキャラであったのと対照的に、
エスケイプは無意識的に自身がデータの塊であることを虚しく感じて
否定的に捉えていたキャラであったのでしょう。
そういう位置づけはどうにか分かるのですが、
エスケイプの行動が常にあまりにも短絡的で自暴自棄な感じであったので、
彼女の内面の空虚に起因する悲哀はあまり滲み出ることはなく、
単に親に甘える幼児、酷い時は単なる欠陥品の暴走のように見えることが多かったのでした。
これは緻密なエンターとの対比で
エスケイプを直情的なキャラに描こうとしすぎた結果ではなかろうかと思います。

そういうわけで結局何だかよく分からないキャラのまま倒されてしまったエスケイプが
年明け46話で復活再登場したわけですが、
ここでのエスケイプはもはや元のエスケイプではなく
単なるエンターに忠実な抜け殻の玩具のような存在になってしまっており、
本来のエスケイプというキャラはクリスマス決戦でよく分からないまま終了しているといえます。
ただ、だからこそ、この新たなエスケイプというキャラにちょっとした期待はありました。
元の意味不明キャラのエスケイプとの連続性が断たれている分、
このエスケイプは意義あるキャラになるかもしれないとも思えたのです。

すると46話から47話にかけて、
エスケイプ自体のエンターに対する目線が以前とは劇的に変化したのを受けて、
エンターのエスケイプへの接し方も大いに変化し、
何やら屈折した愛憎めいたものが表面化してきました。
これは以前から少々は兆候はあったのですが、
エスケイプとの接触を通じてエンターの中に人間性が芽生えてくるような描写といえます。
まぁ陳腐といえば陳腐なのですが、
ハッキリ言って何の面白味も無いキャラであったエンターに
ここにきて初めて人間臭さが現れてきたのはドラマ的には盛り上がりポイントです。
つまり、この新エスケイプはもはや彼女自身は何ら意味の無い抜け殻キャラに過ぎないのですが、
エンターの変化を促すという意味で物語において
重要な意味をなす存在になるのではないかとも考えられたのです。

エンターはデータの塊であって人間ではない。
そのエンターは人間になろうとしていました。
それは中盤の亜空間決戦でヒロムに敗北した時に人間というものに興味を持ったからなのですが、
エンターはどうも人間のデータをたくさん集めれば「完全な人間」になれると思ったようです。
それで亜空間決戦後、人間のデータを収集するメサイアカードを使った作戦を実行したわけですが、
こういうエンターの考え方は実は完全な錯誤に基づいています。
何故なら人間とは不完全な存在だからです。
人間のデータをいくら集めても完全な人間などにはなれません。
不完全さにしか辿り着けないのです。

クリスマス決戦以前のエスケイプというのはデータの塊でありながら
この人間的な不完全さに憧れてしまっているようなキャラであり、
当初は完全な人間を目指していたエンターも
メサイアカード作戦を遂行する中でエスケイプとの接触を重ねて影響を受けてしまったのか、
いつしか不完全な人間性に目覚めるようになってしまっていた。
その象徴がクリスマスに消滅したエスケイプを復活させて
玩具のように扱い愛憎を向けるようになったエンターの行為といえます。

人間は完全な存在にはなれない。
そうした人間の真実を理解できない人外が
人間になることによって自己が完全になれると無邪気に思い込んで突っ走る。
そこには悲劇が必ず生じます。
そうした「人間を知らない人外の悲劇」を通して人間の真実の姿を浮き彫りにするという
作劇手法は古典の名作としては「ピノキオ」が挙げられ、
特撮では「キカイダー」という名作があります。
だから、この作品でも
「完全な人間を目指しながら不完全な人間性に目覚めてしまったエンターの悲劇」というものが
描かれるのかと一瞬思いました。
そうしたエンターの悲劇との対比でゴーバスターズを描き、
人間の真の姿を描こうというのがこの作品の趣旨であったのかと、
47話辺りではそのように考えていました。

まぁ大筋ではこうした見方は大外れというわけではなかったかもしれません。
完全な人間になることなく倒されたのはエンターにとっては十分に悲劇であり、
そもそも無理なことをやろうとしていたという意味で滑稽さや哀れさもありました。
だが、そうした「エンターの悲劇」という要素はエスケイプ切り捨てと共に
48話から急速にフェードアウトして表面からは消えてしまい、
エンターは単なる記号的な「倒すべき巨大な悪」になってしまいました。
敵としては強大化肥大化しましたが、むしろキャラとしては矮小化してしまった印象です。

エスケイプも最後までエンターの不完全な人間性を繋ぎ止める錨のような役目を果たして
最後の最後まで物語に付き合うのではなく、
あっさりエンターに捨てられることによって、
エンターが不完全な人間性に完全に決別して完全な人間を目指すという決断の
象徴的役目を果たして出番を終えてしまいました。
エスケイプを捨てることでエンターの中の不完全な人間性への拘りが消え去り、
もともとの「完全な人間を目指す」というエンターになってしまったため、
エンターの中で葛藤が消え、悲劇的な要素が無くなり、
ただ単に無理なことをやって必然的に失敗して敗れ去ることが容易に予想できる、
平板でありふれた悪役に堕してしまったといえます。

つまり制作サイドは「エンターの悲劇」をちゃんと描くことは放棄したのです。
ここで「放棄」と言った理由は、
46話から47話にかけては明らかにエンターの悲劇へのイントロのように描かれていたからであり、
それが48話で突然フェードアウトしたので放棄したように見えたからなのですが、
これは誤解かもしれません。
もともと制作サイドはエンターの悲劇など描くつもりは無く、
あくまでエンターは平板な悪役として扱うつもりだったのかもしれません。
ただ、制作サイドが妙にエンターというキャラを気に入っていたので、
最後にちょっとエンターのキャラ的な深みのある見せ場を作ったという、
単にそれだけだったのかもしれない。

案外そんなところだったのではないかと思います。
エンターがエスケイプと関わったために不完全な人間性に目覚めかけるという展開は、
このクライマックス篇の本筋には実はあまり関係無く、
単なるキャラ愛ゆえのオマケみたいなものであって、
あくまで本筋ではエンターは「完全な人間」という完全なる錯誤を目指す
無機質な狂ったモンスターに過ぎない。
それが制作サイドの意思でしょう。
そこに悲劇は見出すことは出来ないことはない。
だが、決して前面に打ち出されてはいません。

では制作サイドがこのクライマックス篇で描きたかったものは何なのかというと、
エンターは結局つまらないキャラで終わってしまったわけですから、
エンターを通して何かを描こうとしたわけではない。
そうなると当然、エンターに対峙するゴーバスターズを通して
何かを描こうとしたということになります。
ただクライマックス篇の物語を引っ掻き回す主体はあくまでエンターです。
つまりエンターの行動に対するゴーバスターズのリアクションが
物語のテーマに繋がっているのであり、
そうなるとエンターの行動が重要なポイントであるのは間違いない。

そのエンターの行動は「完全な人間」になろうとすることです。
それに対するゴーバスターズ側のリアクションですから、
「完全」に対比したゴーバスターズ側の「不完全」、
つまり人間の不完全さが結局、この物語のテーマなのです。

しかし「完全な人間」といってもエンターの強さ的に「完全」とはいえないことは前述しました。
そうなると、このクライマックス篇におけるエンターの「完全」というのは強さではなく、
倒されても何度でも再生可能である点、つまり「不死」という点なのでしょう。
まぁこれもあくまで「データが残っている限り何度でも再生可能」というだけのことに過ぎず、
データを破壊すれば復活再生は出来ないのですから真の意味での「不死身」「完全」にはほど遠い。
メサイアもエスケイプも同様の手法で復活再生しましたが、
結局データが失われることによって消滅しました。

だからエンターの言う「完全」というのは実は徹頭徹尾まやかしであって、現実性は全く無い。
こういう点からもエンターの「完全な人間」など実に薄っぺらい脅威に過ぎず、
このエンターという悪役は本来ならちょっとした侮蔑の対象程度の存在でしかありません。
実際、ゴーバスターズの面々もエンターがバックアップカードの所在について
衝撃の告白をするまではエンターのことなど大して歯牙にもかけていない様子でした。

エンターのバックアップデータがヒロムの中にあることによって、
ヒロムが生きている限りエンターは「不死」の存在となる。
ヒロムが自分ごとカードを削除すればエンターも不死ではなくなり倒すことは出来る。
しかしヒロムが死ぬことを躊躇している限り、
エンターは不死であり完全な存在であり続けるといえる。
つまりヒロムという人間の死への恐れがエンターを完全たらしめている。
「完全」と「不完全」が対比される関係にあるとするならば、
人間の「死に対する恐怖」こそが人間の不完全さであり、
エンターを完全な存在としてしまっているということになる。

いや、エンターも死に対する恐怖が無いわけではない。
恐怖という感情は理解出来ないかもしれないが、
バックアップデータを削除されて自分が不死の存在でなくなってしまうことは困ることだと思い、
避けなければいけないと思っている。
そういう意味では相討ち覚悟ならば対等の勝負は出来る。
実際、ヒロムは48話において捨て身でエンターと交渉しようとした。
あの作戦は結局はヒロムの体内のカードに阻まれて失敗したので、
ヒロムが自分を犠牲にする作戦は不可能であるかのような印象になっているが、
実際はそんなことはない。
大筋ではあの方向性で間違ってはいないのです。

あの48話のシーンをよく見ると、
あの時ヒロムは相討ち直前の状況を作り出してエンターを脅して
カードを抜き取らせようとしていたのであって、あくまで死のうとしていたわけではない。
「死んでも構わない」という姿勢を見せてエンターの譲歩を引き出そうとはしていたが、
実際は本当に死ぬつもりだったわけではなく虚勢だった。
いやヒロム自身、本気で死んでもいいと思わなければ
エンターを脅すことなど出来ないと分かっていたであろうし、
本気で死ぬつもりで作戦に臨んだのだろうと思う。
だが、それでも実際はヒロムの死の覚悟は偽物で虚勢に過ぎなかったのは、
そのシーンを見ていればよく分かる。

炎に包まれた状態でエンターに抱きつき
相討ち覚悟でカードの抜き取りを要求してくるヒロムを嘲笑ったエンターが
自ら自爆した時、ヒロムはパワードスーツ化して自分と一体化していたニックに
思わず逃げるよう叫びました。
あそこまでの状況に至って死の覚悟も出来ていたのならば、
今さらニックを逃がすことなど考える方がおかしい。
ニックも共に死ぬのが当たり前です。
あそこで自分が真っ先に逃げ出さなかったのは
さすがに一応は死の覚悟を自分に言い聞かせていたヒロムの意思の強さの表れだとは思いますが、
それでもニックだけは逃がそうとしたということは、
ヒロムの計画はあくまでエンターにカードの抜き取りをさせて
自分もニックも死なずに生還するということを目標としたものだったということが分かります。

その前に高層ビルから飛び降りようとしていたのも、
きっとエンターが現れて止めようとするという計算に基づいた
巧妙なエンターおびき出しの計略であって、
確かにヒロムのクールでクレバーな頭脳戦の妙ではありますが、
結局は決死の覚悟とはほど遠い。
死んでもいいとは思いつつ、出来れば死にたくはない、
ニックと一緒に無事に生きて帰りたいという欲求をゼロにすることは出来ていないわけです。

だから脅せばひるむと思ったエンターが逆に強気になって自爆攻撃を仕掛けてきたので
ヒロムは生命の危険を感じて慌ててしまい、
思わずニックに向かって逃げるようにと叫んでしまった。
そしてヒロム自身は逃げずに、いや逃げ切れずに、エンターと共に爆発してしまったのですが、
エンターは跡形も無く吹っ飛んだ一方でヒロムは体内のカードから出た
硬質のワイヤーのようなもので包まれて無傷でした。

このワイヤーがほどけてその下から現れたヒロムの姿が注目点で、
この時ヒロムの顔はこわばり、
身体的ダメージは無いにもかかわらずヒロムはその場にへたり込みます。
要するに腰を抜かしてしまったわけです。
つまりヒロムは爆発の直前までエンターに向かって死を覚悟していると言いながら、
実際は爆発の瞬間、死の恐怖に腰を抜かしていたのです。
死んでもいいと言いながら、本当は死にたくなかった、死ぬのが怖かったのでした。
このヒロムの生への欲求、死に対する恐怖に反応して
体内のカードがヒロムの身体を守ったのではないでしょうか。

本編中にはそのようにハッキリとは言及されてはいません。
だが、それでもそうではないかと思う理由は、
結局このカードは最終話で陣の身体に移し替えられて簡単に破壊されているからです。
カード自体に自己防衛機能のようなものが備わっているのならば、
宿主がヒロムであっても陣の本体であってもどちらでも関係無く
カードに破壊の危機が及んだ時に防衛機能は発動するはずです。
なのに陣の本体に移されたカードはあえなく破壊された。

おそらくカード自体を守る機能などは無いのです。
カードが宿主を守る機能だけが備わっているのであり、
そしてヒロムが宿主である時には発動した防衛機能が
陣の本体が宿主である場合は発動しなかったということは、
カードは無条件に宿主を防衛するわけではなく、
宿主の条件によって防衛機能は発動したりしなかったりするようです。

ただ、それがあまりにもランダムな条件である場合は
果たしてヒロムを宿主とした場合にその防衛機能が発動するかどうか
エンターが予想することが出来ないので困ってしまいます。
だから必ずヒロムがその条件を備えているとエンターは予想していたはずです。
それゆえエンターは自信満々でヒロムと密着した状態で自爆することが出来た。
つまり、このカードの防衛機能発動の条件はかなり普遍的なものであるはずで、
それでいて何故か陣の本体が宿主の場合は発動しなかった。
ならばヒロムおよび多くの人間の持つ特徴と陣の本体の持つ特徴の差異を考えれば
自ずと答えは明らかです。

ヒロムや他の人間は生きている普通の人間であるのに対して、
陣の本体は生きているとはいえないデータの塊に過ぎませんでした。
しかもカード破壊作業に着手した段階で陣は完全に生きることを諦めてしまっていました。
そして48話でのエンター自爆時にヒロムの見せた生への執着と死への恐怖の反応を考え合わせると、
カードの防衛機能は宿主の生きた人間ならば当然捨てきれない生きることへの執着と
死への恐怖に反応して発動し、
宿主の生きたいという欲求に応えて宿主の身体を守るのだと考えるのが
最も自然ではないかと思います。

ヒロムは48話で作戦が失敗した時、自分の決死の覚悟が所詮は虚勢に過ぎず、
死への恐怖をどうしても消し去ることが出来ないことを思い知らされた。
そしてカードがそうした自分の生きたいという欲求に応えて
自分を守ったのだということを悟ったのでしょう。
だから打ちのめされて、その後はもうカードごと自爆することなど試みることはなくなった。

次は取引などというまだるっこしいことではなく、
完全に死ぬつもりで自爆してみてもいいかもしれないし、
バスターマシンで捻り潰すとか核爆弾を使うとか、
あるいは48話で陣やリュウジが相談していたような、
一旦ヒロムを転送状態にしてヒロムがバラバラになって元に戻れなくなること前提で
強引にカードを抜き取って破壊するという方法など、いろいろ試す価値はあります。
しかしヒロムはそれらを試す意義はもはや無いと諦めた。
どのような方法を試してみたところで、ヒロムの心に生存欲求が僅かでもある限り、
きっとカードの防衛機能によって自分は死ぬことが出来ないのだとヒロムは理解したのでしょう。

49話においてリュウジがヒロムに向かって、
ヒロムを削除しなければいけないのならその時は自分がやると熱く語りましたが、
それは絆や覚悟の確認というだけの意味でしかなく、
実際的にヒロムを削除することは不可能であることはリュウジも理解はしていたはずです。
そう考えなければ最終話で陣が自分が犠牲になると言い、他に方法が無いと言った時に
ヒロムやリュウジが対案を出さなかったことが説明がつきません。

ヒロムやリュウジはその時点でとりあえず誰も犠牲にならないで済むような解決策を
期待していたわけですから、そこに陣が犠牲になるような案を出されても、
それはヒロムが犠牲になる案と変わりないわけですから、
当然ヒロムやリュウジはヒロムが犠牲になる案を対案として出すはずです。
特に一旦ヒロムを転送状態にしてからカードを破壊する案は、
陣が自分の身体でやろうとしている案とほぼ同じ案であり、
陣の案の成功の可能性とヒロム転送案の成功の可能性は普通に考えて大差無いはずです。
陣の案だって偉そうなこと言っていますが試したことがあるような案ではないのだから、
ヒロム転送案に比べて大して優位な案ではないはずなのです。
まさか陣は犠牲になってもいいがヒロムは犠牲になってはいけないなどという
考え方をあの場に居た者の誰も持っているわけもなく、
陣が犠牲になるというのならヒロムが犠牲になる案が対案として出てきても全くおかしくはない。
また、ヒロムが宿主の場合は発動しているカードの防衛機能が
陣が宿主になった場合に発動しないなどという保証は無い。

陣が確実に出来るだろうと思っていることは、
ヒロムの身体から自分の本体にカードを移すことだけです。
その後どうなるのかは実は未知数であり、
だからこそ陣はこの案を「試す価値はある」としか言っていない。
もしかしたら陣の本体に移したカードも防衛機能を発揮して
陣の本体がバラバラになることを防ぐかもしれない。
その場合は陣は死なずに済みますが、カードも破壊されず
エンターは不死の存在であり続けてしまい、世界の危機は去りません。
そういう最悪の可能性もあるわけですから、
それならヒロムを転送状態にしてカードを抜き取る案だって十分立派な対案になるということは、
普通に考えればヒロムにもリュウジにも分かるはずです。

なのにヒロムもリュウジも「対案があるのか?」と問う陣に何も言い返せず、
陣の案を受け入れるしかなかった。
それはつまり、ヒロムの体内にカードがある限り破壊は困難だと
納得してしまっているということであり、
一方で陣の本体にカードを移せば破壊は可能だと思っているということです。
そのヒロムと陣の扱いの差がどこから来るのかというと、
ヒロムやリュウジが「カードの防衛機能は宿主の生存欲求に反応して発動する」ということを
理解しているからだと考えるしかない。
ヒロムは普通に生きている人間の本能として、どうしても生存欲求を完全に消すことは出来ない。
しかしデータの塊に過ぎず、破損なども激しくてもはや生還は絶望的な陣ならば
生存欲求はゼロにすることは可能だと、陣もヒロムもリュウジも理解は出来たのでしょう。

もちろんそれとて100%成功確実な案ではない。
陣だってこれまで必死で生還しようとしてもがいてきたのですから生存欲求はあります。
カードのデータを自分の本体に移せば自分はバラバラになってしまうから諦めがつくとも言えますが、
もしそれでも生きたいと陣が思えばそれに反応してカードが
陣がバラバラになるのを防ぐ可能性もあり、
陣ならばその可能性も分かっているのですから、
そうしたあらぬ期待に心動かないとも限らない。
だから陣としてもこの方法が上手くいくかどうか、
本当に最後の最後まで確実な自信があったわけではないでしょう。

最初は陣は自分の本体がバラバラになることはヒロム達に告げずに
黙って自分の案を実行しようとしていましたが、
おそらくあのままやっていたら、ギリギリのところで陣の生存欲求が顔を出してしまい、
カードが陣がバラバラになるのを防いでしまい、
エンターを倒せなくなってしまったでしょう。

陣が最終的に生への執着を捨てて死の恐怖を克服できたのは、
むしろJの空気を読まない発言によってヒロム達に陣の案の全貌がバレてしまい、
猛反発を喰った結果、陣がヒロム達を説得したからでしょう。
お蔭でヒロム達は陣の説得を受け入れて、
陣の託した想いをしっかりと受け止めることになった。
その姿を見たことによって陣は自分の想いを継ぐ者たちの存在に安心し、
遂に完全に生への未練を断ち切ることが出来たのでしょう。
そうして完全に死を受け入れることの出来た陣の身体に移されたカードは
防衛機能を発揮することなく、あえなく破壊され、
エンターの不死性は崩れ去り、その野望は潰えたのでした。

このように見ていくと、エンターの嘲っていた人間の不完全さとは、
「死の恐怖を克服できないこと」のように思えます。
実際ヒロムは結局は死の恐怖は克服できなかった。
どんなに普段勇ましく戦っていても、それでも生きている限り、死は怖いものです。
ヒーローとして情けないと言われるかもしれないが、それが人間の真実であり、
この「ゴーバスターズ」という作品はそこの部分はヒーロー番組でありながらも
正直に描こうとしたように思えます。

思えばゴーバスターズはそういう意味で「弱さ」が強調されたヒーローであり、
荒唐無稽なまでに強い痛快ヒーローを好む層からはあまりウケは良くなかったといえます。
正直言って、子供向けの正統派ヒーロー番組としてはこの制作姿勢は正解ではないと思います。
ただ、そういうリスクを負ってまで描きたい何かがあったのでしょう。
そういう意味で、決して成功作ではないですが、ある種の意欲作ではあったと思います。

よく言われるのはハードSFとか、メカニック描写の面で意欲作であったという意見ですが、
私は正直言ってこれらの面でこの作品が意欲作であったという印象はあまり無いです。
スーパー戦隊シリーズの過去の作品でも毎作品で
SF的にもメカニック的にも意欲的な試みというものはあり、
それらに比べてこの作品が特に突出した試みをしていたとは思えないからです。
最新作品ですから当然、制作サイドはもちろん特撮雑誌などでも
「史上最高」という持ち上げはしますから、
そのムードに乗っかってファンもすっかりその気になってしまうものです。
これは毎年起きるお馴染みの現象に過ぎません。
また、この作品の持つSFやメカニックの方向性が自分の好みにたまたま合致した人が
一生懸命「今までで一番凄い意欲作」と持ち上げているだけであって、
一方ではこんなものは全然良くないと思っている人もいます。
これもまた例年と同じ現象でしかないです。
だからSFやメカニックなどの面は、まぁ例年並みの作品という印象しかないです。

実際、SF考証などはこの作品はかなりいい加減です。
エネトロンもアバターもワクチンプログラムも結局何だかよく分からないままでしたし、
13年前の事件の経緯も曖昧なままです。
どうもこの作品、SFを前面に押し出しているものの、
実際はSF設定を真面目に詰める気が無かったのではないかとすら思います。
それはまぁ怠慢といえば怠慢ですが、
根本的にはSFを描きたかったわけではなく、他に描きたいものがあって、
そこに上っ面だけSFを被せたものだから、
ついついSF設定の方はいい加減になってしまったのでしょう。

この作品で真に意欲的に描こうとしたものは、ヒーローではなく人間そのものであり、
特にその中でも人間の根っこともいえる「死」について描こうとしたのではないかと思えます。
普通はこんな暗いテーマは子供向けヒーロードラマでメインで描くのは回避されるものであり、
だからこそ、ある種の意欲作だと思った次第です。
どうしてそんな暗い「死」などを描こうとしたのかというと、
陳腐ではありますがこの作品の場合はそうした陳腐な説がよく言われているので
この際便乗して言わせてもらいますが、やはり東日本大震災の影響があるのでしょう。

震災の後、当初は生き残った人々が巨大な絶望の中から
どうやって立ち上がって生きていくのかが問題となっていました。
震災発生から1年弱の時点で最終話を迎えた去年の「ゴーカイジャー」は
それに1つの答えを出した作品でありました。
一方、震災発生から2年弱の時点で最終話を迎えた「ゴーバスターズ」は、
1年の時間の経過によって生じた少々の余裕からか、
震災を生き残った当事者自身の問題から少し視野を広げて、
震災で亡くなった人々との関係性を
震災で生き残った人々がどう捉えるべきであるのかが描かれたように思います。

エンターは人間が死の恐怖を克服できないことを不完全さだと見なして嘲りました。
エンターはデータの塊で感情は無いので死の恐怖はありません。
そしてデータの塊であるゆえにバックアップがあれば何度でも再生可能であり
不死、完全な存在たり得ます。
エンターはその自分の完全性のカギとなるバックアップデータを人間であるヒロムの中に仕込み、
人間が死の恐怖を克服できない限りバックアップデータが失われないような仕掛けを作りました。

ヒロムが人間としてどうしても死の恐怖を克服できないゆえにエンターの不死性は守られてしまう。
そういう構図ゆえにエンターは人間の不完全さを嘲笑い、自分の完全さを自画自賛します。
この構図において、ヒロムが死の恐怖を克服出来ないがゆえに
エンターの優位を許してしまっているので、
人間が死から逃れられず、死を恐れ続けることは確かに人間の不完全さではあると思います。
そのことはヒロムも認めている。

だが、人間が死すべき不完全な存在であり、死を恐れる臆病な存在であるからこそ、
人は死を特別なものとして畏怖し、死者の遺した想いを尊重することが出来る。
これはデータの塊には出来ない芸当です。
人間は死者の遺した想いを尊重するからこそ、
死んだ者や死にゆく者の想いを受け継いで生きていくことが出来る。
そして、生き残った者が自分の想いを受け継いでくれたことを認識することによって、
死にゆく者は満足して死の恐怖を克服することが出来る。
ヒロム達が自分の想いを受け取ってくれたことを実感したからこそ、
陣は死の恐怖を克服して死んでいき、
その結果エンターのバックアップデータの破壊に成功した。
死の恐怖は人間の不完全さだとエンターは見なし、
死の恐怖の感情の無い自分こそが完全だと豪語したが、
そうした人間の不完全さゆえに死の恐怖は克服され、
それによってエンターの不死性、完全性は崩壊したのです。

この解決法は実はヒロムが誰か自分の想いを受け継ぐ相手を見出して
死の恐怖を克服して死んでいくことでも成立はしました。
例えばヒロムの想いをヨーコが受け継ぐという形でも良かったわけです。
だがその場合はヒロムは死んでしまうわけで、それではどうも物語的にはマズいのです。
この物語はあくまで生き残った人間が死んだ人間との関係性をどう捉えるかがテーマなので、
視聴者の代理たる主人公は「生き残った人間」の側でなければいけないのです。
だからヒロムは死んでいく側ではなく、
生き残って死んだ者の想いを受け取る側でなければいけない。
ならば誰か別の者が死なねばならないのだが、
そこでこの生者と死者の物語の構図をより鮮明にするために、
もともと半分死んでいたような男である陣が用意されたのでしょう。

思えばアバターである陣は幽霊のような存在で、
亜空間に行ったヒロムの両親たちも亜空間篇ではまるで幽霊のような描かれ方をしていました。
亜空間という場所は幽界のようなもので、
ヴァグラスはそこに巣食う物の怪の類で、
現実世界にやって来て命無き無機物に憑依してモンスターとなるとも解釈できる。
つまり、この物語は一見ハードSF的な世界観のように見えて、
実際はかなりファンタジックな世界を描いていたのではないかとも思えます。
よくよく考えれば「ゴーバスターズ」というタイトルも
「ゴーストバスターズ」のもじりなのかもしれません。

ここまでいくと深読みしすぎなのかもしれませんが、
少なくとも最終話で提示されたテーマが
「人間は死んだ者の想いを受け継いで生きていく」ということであるのは間違いないでしょう。
そしてそれはもともとヒロム達が13年前に両親たちの想いを受け継いで生きてきたという
序盤からの展開にも繋がっていく。

こうしたヒロム達の生き方がヒーローとして正しいのかという点では
いろいろと異論もあるでしょう。
死んだ者の想いを受け継ぐだけでは復讐鬼となったり時代遅れになる危険もあります。
自分の意思で物事を決められない主体性の無さに繋がる可能性もあります。
それゆえ、これまでの戦隊では「死んだ者の想い」というものが劇中で扱われる場合は
大抵はそれは「乗り越えられるべきもの」として扱われてきました。
死んだ者の想いは受け継ぎつつ、それを更に超えた自分の独自の生き方を見出していくのが
ヒーローとしてのあるべき姿として描かれることが多かったゆえ、
死んだ者の想いをそのまま受け継いだだけのゴーバスターズの在り方に
ヒーローとして物足りなさを感じる向きもあるでしょう。
いや、私自身物足りないと思っています。

しかし、この物語はゴーバスターズというヒーローをカッコよく見せることが目的ではなく、
あくまで人間と死との関わりを描くことが主眼だったのだと思います。
そういうスタンスのドラマであるのならば、
あくまで生き残った者が死んだ者の想いをそのまましっかり受け継ぐところまでを描くべきなのであり、
その後で受け取った側がそれをどうアレンジしていくのかまでは描く必要は無い。
このドラマにおいては最終話のエピローグにおいて、
生き残ったメンバーのその後を軽く描きながら、
そのあたりについては少し示唆しているようにも思えます。
まぁ通常の戦隊の場合は戦いの中でそのアレンジまで描かれるのですが、
ゴーバスターズは上記のごとく特殊なドラマであったので、
あくまで死んだ者の想いを受け継ぐ段階だけで戦いを完遂するというスタイルになっています。

まぁこのように「ゴーバスターズ」という作品が
何だかそれなりに深いテーマを扱った良作であるかのような文章を
ここまで書いてきてしまいましたが、実は私はそんなことは全く思っていません。
ここまで書いてきたことはあくまで最終話に至る46話以降の
クライマックス篇を見た上での感想であって、
この5話分だけに関して言えば、上記したようなテーマはしっかり描けていたとは思いますが、
1年間通した作品としてはそのテーマは全くちゃんと描けていなかったと
思わざるを得ないからです。

もちろん基本設定である13年前の事件に起因する様々な事象が
このクライマックスの展開に繋がっていたり、
中盤の亜空間篇やクリスマス決戦篇などでも
死者の想いを受け継ぐ生者たるヒロム達が描かれていたりして、
随所でこの物語のテーマは一貫した形で触れられていたようにも見えます。
それでも1年間通してこの物語がこのテーマで一貫していたという印象は無い。

これは確かに難しい作業でしょう。
生者と死者の物語だからといって、
1年間全てのエピソードをその構図で描くことなど出来ません。
全体の物語を進めるために必要な展開はこなしていかないといけないし、
販促回もあるしギャグ回だって必要です。
そうなると1年間バラバラなエピソードの集まりになってしまうのも仕方ないようにも思えます。

ところが従来の戦隊ではエピソードのタイプはバラエティーに富んでいても、
何故かゴーバスターズよりもよほど1年間一貫したテーマでまとまっているように見える。
それはどうしてなのかというと、
主要登場キャラのキャラ設定そのものの中に物語のテーマが上手く込められているからです。
だからシリアス回でもギャグ回でも販促回でも悪役メイン回であっても、
メインキャラがドラマの中で動き回るだけで自然に物語のテーマが描かれることになるのです。

このキャラ設定が「ゴーバスターズ」はかつて見たことがないくらい上手くいっていない。
文字的な設定だけしっかりしていても意味は無い。
実際に劇中で活かされてこそ初めてまともな設定といえます。
そういう意味でゴーバスターズのキャラの設定は全くダメでした。
だから結局この作品は1年間全くテーマの一貫性を実感することが出来なかった。
お題目は説明されることはあるが、それは言葉だけであり、心で実感することは出来ない。

最終話で提示されたテーマが思い返せば全てのエピソードでも
キャラの動きによって描かれていたのだと改めて実感されるのが真の名作であり、
歴代スーパー戦隊シリーズにはそうした作品は多いのですが、
この「ゴーバスターズ」という作品ではそうした感想は結局は持つことは出来ませんでした。

この作品の最終話で示されたテーマはそれなりに意義深いものであり、
ある意味で感動的だと思いました。
また、細部では色々と光るところもあった作品なのでしょう。
しかし私はマニアではないのであまり細部のディテールは見ない主義であり、
1年間トータルで物語の完成度がどうであったかという点で評価する傾向が強いので、
そういう視点ではこの作品は近年では稀に見る失敗作であったと言わざるを得ないでしょう。
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posted by 通りすがりのシンケンブラウン at 01:30 | Comment(8) | 特命戦隊ゴーバスターズ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
なんでデカレンジャーから急にゴーカイジャーになるのか納得できない
Posted by at 2013年02月14日 20:44
探したら別口で他のもありました失礼しました
Posted by at 2013年02月14日 20:53
特撮界隈では「小林アンチ」と「小林信者」の二極化が激しくまともに小林作品を語ることが難しい中、どちらにも傾いていないここのレビューは参考になります。
やっぱり結局両親を救うことができなかったのと最終的にヒロムだけが無職になってるのが引っ掛かりましたね…
陣さんやエンターはおそらくバックアップか何かを使って来年のVSで復活するのでしょうが。
Posted by at 2013年02月15日 00:25
ヒロムが無職になったのかどうか何も言及されてないので不明ですね
いや公式ページやコメンタリーなどで何か言及があるのかもしれませんけど
この作品の場合そこまで見てないので
Posted by 通りすがりのシンケンブラウン at 2013年02月15日 08:32
将来のことを13年分考えるとか言ってるんであの時点じゃ無職なんじゃないかと…
Posted by at 2013年02月15日 19:59
お久しぶりです。
レビューを読んで、私もほぼ同じような感想を持ちました。
あと、思ったんですが、ギャバンゲスト回の前に一度決戦しちゃいましたよね。
あれは何らかのてこ入れがあったんでしょうけど、
そのせいで、物語スタート時点で考えられていた着地点から微妙に変わってしまい、若干消化不良みたいになったんじゃないかなと。
Posted by ミドグリーン at 2013年02月15日 23:12
視聴者の共感を得られなかった×自分の共感を得られなかった○
2ちゃんに文章をコピーされている。
Posted by at 2013年02月22日 12:21
2ちゃんに文章を勝手にコピーされるのはちょっと困りますねぇ
あくまでこのブログは私個人の妄想なのであまり公に出来る内容ではないですので

変に反感を持たれて騒がしくなるのも嫌ですし
Posted by 通りすがりのシンケンブラウン at 2013年02月23日 07:17
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